阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2024年1月7日
新年礼拝
「キリストの体」
Tコリントの信徒への手紙12章27節

 2024年を迎えました。
今年は元旦から大地震が北陸や能登でありました。いまだ復旧のめどは立たずに、避難されている方々が大勢おられます。また、時間がたつほどに亡くなった方々の数が増えています。
行方不明者も大勢おられます。
阪神淡路大震災を体験された兄姉もおられますが、あの時を思い出して、一日も早い回復と癒しを祈りたいと思います。
アッセンブリーの北陸教区、関東北教区の被害状況は2日現在のものしかありませんが、各教会の牧師先生、ご家族、信徒さんはご無事とのことです。高台に避難されている兄姉も大勢おられます。教会内や各ご家庭は、家具や本棚の倒壊で物が散乱して、後の片づけに時間がかかりそうとのことです。
新潟教会は、教会内の敷地や道路に液状化がみられて、道路が盛り上がっているとのことです。
氷見教会を始め、各地で断水が続いています。寒さの中、被災者の皆様の健康が守られるように、お祈りいたしましょう。
 さて、私たちは新しい年に、「教会では彼のために熱心な祈りがささげられていた」(使徒12:5)という御言葉が与えられました。
今年も祈る教会でありたいと願います。
元旦礼拝で、ペトロがどのようにして、厳重に監視されていた獄屋から助け出されたかを学びました。
ユダヤ人指導者たちは、主の教会や使徒たちを迫害しました。時の王、ヘロデは使徒ヤコブを殉教させたことが、彼らを喜ばせたので、次はペトロに悪の手を伸ばしました。
過ぎ越しの祭りの後でペトロを民衆の前に引き出して殉教させるつもりでした。
ペトロは牢の中で眠っていました。そこへ天使が遣わされてきました。天使はペトロのわき腹をつついて起こしました。するとペトロをつないでいた鎖が外れ落ちました。
天使はペトロに身支度をするように言い、天使の後についてくるように言いました。この時ペトロは天使の導きが、現実の事とは思えませんでした。
二つの衛兵所を通り過ぎ、外に出る門が開いたので、外に出ました。通りに出て、天使が急に離れ去った時、ペトロは我に返りました。
「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ。」(使徒12:11)といって、マルコと呼ばれていたヨハネの母の家に行きました。そこには大勢の人が集まってペトロの為に祈っていました。
ヨハネの母はマリアと言いました。多くの人が集会に集まれるほど家が大きく、裕福であったようです。
ペンテコステの日に弟子たちが集まって祈ったのも、この家だと言われています。家の教会として、大変用いられました。
息子のマルコは後に、パウロの宣教旅行に同行しましたが、途中で引き返してしまい、不興を買いました。しかい後年、パウロに彼は役に立つとまで言われるようになりました。さらに、マルコによる福音書を聖霊によって執筆しました。
さて、本日与えられているのは、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(Tコリント12:27)という御言葉です。
Tコリント12章12節以下には、教会についての教えが記されています。
「教会は、キリストの体」であるということを心に留めたいと思います。
教会とは、イエス・キリストは救い主であると信じて受け入れた者の集まりです。イエス・キリストという一つの霊によって導かれて、信仰の告白をして水のバプテスマを受け、キリストの霊を飲ませてもらったのだとあります。
イエス・キリストを救い主として信じて心に受け入れた者は、キリスト者です。古い自分、罪の中に生きていた自分が、主イエスの十字架によって罪許され、永遠の命を与えられました。
そのように新しい命に満たされた者たちが集い、賛美し、祈り、礼拝する場が教会なのです。
さらに教会には、福音を宣べ伝えるという大切な使命が与えられています。キリスト者はイエス・キリストこそ救い主であることを世に向かって語り告げるのです。
また、教会は体にたとえられています。
体には頭、手、足、目、鼻、口など多くの部分があります。
「体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足がわたしは手ではないから、体の一部ではないと言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳がわたしは目ではないから、体の一部ではないと言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。・・・だから多くの部分があっても、一つの体なのです。」(Tコリント12:14−20)と、説明されています。
キリストを頭として従い、御言葉に養われながら命に溢れて、一人一人が体の部分を担いながら成長していくのが、生ける教会なのです。
御言葉は「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」(Tコリント12:22)と教えています。
弱い所に主の力は現れます。主イエスは弱さを覚える人と共に歩んでくださいます。
強い人も弱い人もキリストにあって一つとなり、神を賛美し共に祈る群れこそキリストの体、教会です。
さらに、「互いに親切にし、憐みの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」(エフェソ4:32)とあります。
キリスト者の愛は、親切という行為で表されます。
また、キリストあって赦し合うことも愛の表れです。
キリストの愛がなければ、一つになることは難しいのです。
私たちはすでに神に愛されている子供ですから、神の愛を表すことができるのです。
キリストの命に結ばれている教会は、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(Tコリント12:26)とあります。
同じ命に生かされているのですから、痛みも喜びも分かち合えるのです。
ローマの信徒への手紙12章15節には、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」とあります。これはキリストの教会の愛のあらわれの一つで、教会の姿であり、祝福です。
教会が一つになって祈る時、主の御業が現れます。
教会の願いは何でしょうか。それは、魂が救われることです。
「彼」とは私たちにとって誰を指すのでしょうか。マルコの母の家の教会はペトロの為に祈りました。教会は祈る事が出来るのです。
誰でも祈る責任がある対象がいるはずです。
今年こそ主イエスを受け入れて、救われるように、霊の牢獄に捕らわれている人が解放されるようにと、祈る年なのです。
天の父は私たちの祈りに答えて、全能の御手を動かしてくださいます。
人にはできなくても、神には人の心に働きかけて、救いに導いて下さる力があるのです。
まず祈りましょう。一人で密室の祈りも幸いな祈りの時を持つ事が出来ます。
祈りの課題を訴えて、二人、三人で祈ることもできます。
執り成す祈りの力を知り、素晴らしい御業を拝することのできる年となる様に、主に期待し進んでいきましょう。





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