阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
22024年1月14日
第2聖日礼拝
「私の隣人とは」   
ルカによる福音書10章36-37節

 2024年は、年明け早々能登地方を震源とする大地震があって、今も余震が続いています。亡くなった方や行方不明者が日ごとに増えています。大勢の方々が避難所で不自由な生活を続けておられます。感染症の心配もされています。被災された方々が、1日も早く日常を取り戻せるよう祈り続けましょう。
私たちは、執り成しの祈りをする教会として今年も用いられるよう祈りつつ進みたいと願っています。
執り成すとは、誰かの為に祈ることです。またお互いの為に祈ることです。祈りは必ず主の全能の御手を動かします。
そして、祈ることは神の愛を表すことです。
主イエスはたとえで大切なことを教えてくださいました。
ある時、律法の専門家が主イエスを試そうとして質問をしました。
主イエスを試すなどとは、本当に不敬虔なことで、この人は律法、すなわち神の言葉について、何でも知っていると思って、非常に高慢でした。
この律法学者は、主イエスに何をしたら永遠の命を受け継ぐ事が出来るかと聞きました。それは、永遠の救いにあずかるにはどうしたらよいですかという質問です。
主イエスはこの学者に、神の言葉はどのように教えているか、また、あなたはそれをどのように読んで、理解しているかと質問しました。
学者は、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」(ルカ10:27)と答えました。
これらは、レビ記19章18節と、申命記19章18節にある教えです。
申命記には、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:4,5)とあります。
そして、「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。
更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」(申命記6:6−9)とあって、寝ても覚めてもその御言葉を心に覚えているようにと教えています。これらの御言葉は、信仰の土台であり、中心となる教えであることがわかります。
主イエスは学者に、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命を得られる」(ルカ10:28)と教えました。
するとこの学者は、自分を正当化するために、「では、わたしの隣人とはだれですか」(ルカ10:29)と、もう一度主に質問しました。
すると、主イエスは良いサマリヤ人のたとえを話してくださいました。
ある人がエルサレムからエリコヘ向かって旅をしていました。
途中で強盗にあい、服を剥ぎ取られ、殴られて半死半生の目にあわされて、倒れていました。
すると、そこを祭司が通りかかりました。祭司はエルサレムの神殿で、神に仕える人です。人々の罪の贖いとして燔祭をささげ、人々の為に執り成す役目がありました。
祭司は、この人を見て、道の向う側を通って行ってしまいました。
次にレビ人が通りかかりました。レビ人は、特別な人たちで、主からの譲りの地は持ちませんでした。主御自身が自分たちの嗣業であって、神殿で仕えている人々でした。
レビ人もサマリヤ人を見ても、道の向う側を通って行ってしまいました。
関わり合いを持つと、汚れて御用ができなくなると考えたのかもしれません。人の命を大切にするより、自分の働きの方が大事だったのです。
3番目に通りかかったのは、旅をしていたサマリヤ人でした。サマリヤ人は北王国イスラエルがアッシリヤに捕囚となったのちに、アッシリヤ人との間の混血の民の子孫です。
そのためにユダヤ人は、サマリヤ人を軽蔑して、決して付き合うことはありませんでした。旅をする時も、どのように遠回りをしても、サマリヤは通りませんでした。
このサマリヤ人は、怪我をしている人のそばに来て、応急手当をしてくれました。この人を見て憐みの心を持ち、心を動かされたのです。
怪我をして苦しんでいる時に、ユダヤ人もサマリヤ人も関係ないと思いました。傷口に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして自分のろばに乗せて宿屋に運び、介抱したのです。
翌日宿を発つときに宿の主人にデナリオン銀貨2枚を渡して、この人を介抱してくれるよう頼みました。もし足りなければ帰りによって支払うと約束しました。
2デナリオンは労働の対価2日分です。ぶどう園で1日働いても1デナリオンですから、大変な金額です。
主イエスは律法の専門家に、「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」(ルカ10:36)と聞きました。学者は、「その人を助けた人です」(ルカ10:37)と答えました。
すると主イエスは、「行って、あなたも同じようにしなさい」
(ルカ10:37)と教えられました。
この会話の中に、主イエスの御心が表れているのに気がつくのではないでしょうか。
主イエスは良いサマリヤ人のたとえによって、神の「愛」について教えておられます。
サマリヤ人は、自分の身近な人ではない、見ず知らずのユダヤ人のために、時間、手間、財などの犠牲を払いました。
何か見返りを求めたでしょうか。何も求めてはいませんでした。ただ強盗に襲われた人が癒されてほしいと願ったのです。
主イエスは、愛とは御言葉をただ知っているだけではなく、表すものだと教えられたのです。
天の父は、その独り子を世に遣わしてくださいました。
神の愛は独り子の十字架によって表されました。
もし、主イエスの十字架がなかったら、私たちは罪の中に滅びなければなりませんでした。
罪を罪とも知らずに、滅びの道を歩まなければならなかったのです。
主イエスは全世界の罪を背負われて、罪の贖いとなってくださいました。
私たちは主イエスの十字架によって買い戻されたのです。
神の子とされ、永遠の命を持つ事が出来ました。
これは一方的に愛してくださる神の愛によるのです。
ユダヤ人たちは、救われるのは自分たちだけだと信じていました。しかし、神の御心はそうではありません。
救いはすべての国々、すべての国民に与えてくださいます。国籍も身分も関係ありません。
「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」(Uコリント1:4)
神は私たちを愛し、どのような時も慰めと力と希望を与えてくださいます。私たちは神の愛と希望によって生きる事が出来ます。
それは、私たちが多くの人々の為に祈ることの力となります。
神の愛によって生きる者は、祈る者です。
聖霊に満たされるよう祈りましょう。聖霊は力と愛と慎みとの霊です。
祈るべき人、祈るべきことについて示してくださいます。
執り成しの祈りを待っている人がおられます。
それはあなたの隣人です。救いを求めて待っています。
心に傷をおって倒れているかもしれません。
私たちはまず祈り、キリストを伝え、手を差し伸べるなら、そこに神の愛と救いが表れます。神の愛を深く思い、さらに神に近づき隣人の為に祈り続けましょう。


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