阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2024年2月11日
第2聖日礼拝
「ステファノの祈り」
使徒言行録7章59-60節

 2月第二週の主の日を迎えました。今朝も心を合わせて、霊と真をもって礼拝をささげましょう。
 今年は、執り成す教会として用いられるようにという目標をもって、歩み始めています。
教会は、主イエスを信じる者の群れです。執り成す教会とは、執り成しの祈りをする群れなのです。
さて、ペンテコステの日に多くの人々が主イエスを信じて、エルサレムで教会が誕生しました。
信じる者が次々おこされていきました。信者たちは、自分の財産を売って、それを使徒たちの足元に置きました。だれも自分の物を自分の物だと言う者はなく、すべてを共有する教会でした。必要に応じてお金は分配されたので、貧しい者が一人もいませんでした。初代教会はそのようにして成長していきました。
ところが、人数が増えるにしたがって、問題が起こりました。ギリシャ語を話すユダヤ人から、ヘブル語を話すユダヤ人に苦情が出たのです。ギリシャ語を話すやもめたちが日々の分配でおろそかにされているという苦情でした。
当時は、ローマ帝国の支配下にあって、ギリシャ語が共通語でした。
エルサレム以外の異郷で生まれ育ったユダヤ人は、ギリシャ語を話しました。一方エルサレムのユダヤ人は当然ヘブル語を話しました。
エルサレム教会の中には、この二つのグループがあったのです。
この問題を解決するために12使徒は信徒たちの世話をする人々を選び、使徒たちは祈りと御言葉の奉仕に専念することを決めたのです。
それで、7名の執事が選ばれました。
その筆頭に上げられているのがステファノです。ステファノは、「信仰と聖霊に満ちている人ステファノ」(使徒6:5)と紹介されています。
使徒たちは彼らの頭に手を置いて祈り、任命しました。
このようにして問題は解決し、福音がますます広がり、弟子の数は増えていきました。神殿の祭司でさえも主イエスを受け入れるようになりました。
ステファノは、恵みと知恵に満ち、不思議な業としるしを人々の間で行っていました。福音に反対する人々はステファノと議論しても歯が立ちませんでした。ステファノが知恵と聖霊によって語っていたからです。
それで、彼らは人々を唆して、ステファノが神を冒涜したと偽証させて、捕らえ、サンヘドリンという最高議会に引き出しました。
ステファノはアブラハムからはじめてイスラエルの歴史を通して働かれる神について話し始めました。
当時の教会は、主イエスを救い主として信じ、受け入れる事のほかは、神殿で祈り、律法を守るということに変わりはありませんでした。
ステファノは、主イエスが御自身を神の小羊として、十字架で犠牲となられたのに、旧約時代と同じように動物の犠牲をささげて礼拝する必要があるのかということについて明らかにしました。
また、モーセの律法を守ることによって救われるのではなく、イエスを救い主と信じることによって救われるということを証言しました。
「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。」(使徒7:51−53)と、語りました。
ステファノは、ユダヤ人たちを非難しているのではなく、メシアである主イエスを受け入れず、十字架に架けて殺したことを悔い改めるよう勧めているのです。

ステファノの証言を聞いた人々の反応はどうだったでしょうか。
怒り狂ったのです。ステファノに向かって歯ぎしりをするほどの大きな怒りでした。
悔い改めようとはしない人々の罪の深さが表されています。
主イエスの福音を聞いて、悔い改める人と、悔い改めようとしない人の違いはどこにあるのでしょうか。
ペンテコステの日に聖霊が注がれ、聖霊を受けた使徒たちは立ち上がり、ペトロは人々に向かい、救い主の十字架での死と復活を語りました。
「あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。」(使徒2:23,24)
「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。(使徒2:36)
ペトロがこのように語ると、人々は心を大きく打たれて、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」(使徒2:37)と聞きました。
「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」(使徒2:38、39)と、信じる者すべてが救われることを語りました。
ペトロの説教を聞いて悔い改めた人々は洗礼を受けました。その日
3,000人が信じる者に加えられたのです。
教会が誕生し、使徒の教えを聞き、交わりをし、パンを裂き、礼拝をささげ、祈ることに熱心でした。
一方、ステファノの言葉に激怒した人々は、ステファノを石打に処しました。
まさに、主イエスの「彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない」(マルコ4:12)とのお言葉通りの有様でした。
人の心の中には、高慢という大きな罪があります。
ステファノを逮捕した律法学者、ファリサイ派の人々、サンヘドリンの議員たちは、当時の宗教的指導者であり、エリートでした。
自分たちは律法に精通し、そのとおりに行っているという自負を持って、神に従う正しい者だと思い込んでいました。
しかし、自己義や自慢、神の言葉ではなく自分たちで作った人の戒めを守り、人を裁くような人々だったのです。
ですから約束のメシアである主イエスが来られても、受け入れませんでした。
ステファノが議会で神の御心を話しても、聞く耳はありませんでした。大変罪深い事でした。彼らは大声で叫び、耳をふさいでステファノに石を投げました。ステファノは主イエスに、「わたしの霊をお受けください」と祈り、また、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒7:60)と膝まずいて大声で祈り、殉教しました。
まさに、「呪う者を祝福し、侮辱する者のために祈りなさい」(ルカ6:28聖書協会共同訳)といわれた主の御言葉どおりでした。
自分は石を投げつけられながら、その人々を執り成しました。
十字架の上で主イエスが、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と執り成しをされた主イエスのお姿と重なります。
ステファノは、主イエスが立ちあがって手を差し伸べて、自分を受け入れた下さることを確信して召されました。
後のパウロもこの場所にいたのですが、この時はまだ回心できませんでした。しかし、神の使徒として召され福音の生涯を送るようになりました。ステファノの祈りは多くの実を結びました。
信じる者は、どのような状況の許でも祈る事が出来ます。そして、祈りは必ず聞き届けられます。魂の救いは祈りにかかっています。
信じてたゆまず、熱心に執り成しの祈りを続けましょう。

今週のみことば
「父よ、彼らをお赦しください。
自分が何をしているのか知らないのです。」
 ルカによる福音書23章34節


 ページのトップへ
  
2024年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ