阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2024年2月18日
第3聖日礼拝
「祈りの力」
コロサイの信徒への手紙4章2-6節

 今日も愛する兄姉と共に、真の神を礼拝できる恵みを感謝します。
今日は、コロサイの信徒への手紙の御言葉を分かち合いましょう。
この手紙には、主イエスの十字架によって罪許された者が、神と和解し、信仰によって希望に満ち溢れて生かされることが教えられています。
「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。」
(コロサイ1:21−23)と励ましています。
さらに、キリストの十字架によって罪許され、神に愛されている者は、互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合うように、主イエスがあなた方を赦されたように、赦しあうようにと勧めています。
キリストの愛と平和が心を支配するようにとも、勧めています。
このように、主イエスに救われた者は、すばらしい恵みによって生かされるのです。
また、キリストの言葉を心の内に豊かに宿らせ、賛美と感謝に満たされるのです。
主イエスの十字架によって罪赦された者の心には、命と平安が満たされます。
さらに御言葉は、「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。」(コロサイ4:2)と教えています。
この御言葉はすでにしっかりと私たちの心にあるのではないでしょうか。
私たちの信仰生活は、御言葉と祈りなしには成り立ちません。
また、神を礼拝するのも信仰と祈りによります。
一日の始めに、終わりに、感謝を込めて祈りましょう。主イエスを見上げ、主イエスに期待して祈りましょう。不安なことや、悩みも委ねて祈るのです。
日中にも様々なことの為に祈ることができます。どのようなことも祈りましょう。
パウロは、祈りについて三つの事を示しています。
「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい」(コロサイ4:2)
「目を覚まして」、「感謝を込め」、「ひたすら」祈るということです。
主イエスは目を覚まして祈ることを教えておられます。
弟子たちと最後の食事をされてから、ゲッセマネとよばれる園へ行かれました。
ペトロとゼベダイの子たち、ヤコブとヨハネを連れて行きました。
少し離れた所で主イエスは悲しみもだえられ、真剣な祈りをささげられました。
そしてペトロ達の所へ来られて、「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」(マタイ26:38)と言われました。そして、また「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26:39)と祈られました。
この杯と表現された十字架が迫っていたのです。
そして、また弟子たちの所へ行かれると、彼らは眠っていました。
主イエスは、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」(マタイ26:41)と言われました。
そう言われてから、二度目の祈りをされて戻られると、弟子たちは眠っていました。また、三度目に祈られて戻られても弟子たちは眠っていたのです。
主イエスは祈りによって勝利され、父なる神の御心である十字架に、向かい進んでいかれました。
主イエスは、誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈るように教えておられます。誘惑とは、祈ることを妨げる誘惑です。
私たちは毎日忙しく生活しています。疲れてしまうこともあります。
時間がなくてバタバタとしなくてはならないこともあるでしょう。
それで、祈りの時を持てなかったということはないでしょうか。
祈りは霊の呼吸であり、父なる神との交わり、会話です。
祈りと御言葉なしに生き生きとした力ある信仰生活はできません。
祈ることは恵みであり、義務ではないのです。
私たちには一日24時間公平に与えられています。信仰生活の秘訣は「聖別」することです。
聖別とは、神の為にあらかじめ取り分けるということです。私たちはささげものをしますが、残ったものをささげるのでしょうか。必要のために使った後、余ったものをささげますか?違います。
これは神の為にあらかじめ聖別いたしましたと、信仰をもってささげます。
時間もそうです。あらかじめ祈りと御言葉の為の時間を取り分けるのです。そして、それからすべてのことをしていく時に、どれほど大きな恵みに満ち溢れることでしょう。
主の恵みにより、物事全てが御手の中で進められていくことを体験するのです。
祈りを妨げる誘惑に打ち勝つこと、それが「目を覚ましている」ことなのです。
さらに「感謝を込めて」祈ることが教えられています。
主イエスを信じて神の子とされた者の特質は、感謝することです。
コロサイの信徒への手紙を書いたパウロは、使徒として召され、迫害の中、宣教のために必死で働きました。
そして、この手紙を書いたときも、豊かな生活をしていたのではなく、牢の中に捕らわれていました。
いつ殉教するかわからないような時に書いた手紙です。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(Tテサロニケ5:16―18)とある通りです。
喜ぶこと、絶えず祈る事、感謝する事、これこそが神が私たちに望まれていることなのです。
パウロは牢獄の中にありながら、福音を伝える事への希望を持ち続けていました。
「同時にわたしたちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださり、わたしたちがキリストの秘められた計画を語ることができるように。このために、わたしは牢につながれています。わたしがしかるべく語って、この計画を明らかにできるように祈ってください」(コロサイ4:3,4)と、コロサイ教会へ祈りのリクエストをしています。
教会は祈る者の群れ、執り成しの祈りをする者の群れです。
パウロは、「わたしたちのために祈ってください」と記しました。
パウロだけではなく、福音のために働く同労者のためにも祈ってほしいと記したのです。
コロサイ書の4章以下には同労者の名前が記されています。ティキコ、逃亡奴隷だったオネシモ、アリスタルコ、ユスト、宣教旅行の途中で帰ってしまったマルコ、エパフラス、愛する医者と紹介されているルカや、デマスの名も記されています。
パウロは自分だけではなく、このような人々が福音のために用いられるように、祈ってほしいと依頼しました。
ユダヤ人の同労者については、神の国のために働く者であり、わたしの慰めになった者たちだと紹介しました。
救われていない人々に対しては、塩で味付けられた言葉、快い言葉を語り、キリストの為に心を引きつけられるように賢くふるまうように勧めました。これは祈りによって備えられるのです。
御言葉の教えをよく心に留め、祈り、思い返しながら生活していく時に、いつでも主エスが素晴らしい恵みと力に満たして下さるのです。
御言葉と祈りこそ信仰の勝利の力です。

今週のみことば
「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。」
 コロサイの信徒への手紙4章2節


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