阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2024年2月25日
第4聖日礼拝
「イエスの祈り」
ルカによる福音書22章31-34節

 2月第四週の主の日を迎えました。今朝も主を見上げ、礼拝できる恵みを感謝します。
主イエスはいつも私たちと共におられ、その御腕を差し伸べて導いて下さることを感謝します。
まず週の初めに礼拝をささげられる恵みと特権を感謝したいと思います。
主イエスは十字架に架られる直前に、弟子たちと最後の食事をなさいました。その席で聖餐を定められ、数々の大切なことをお教えになりました。
ところが、弟子たちは自分たちの中で誰が一番偉いかなどということを大声で議論していました。大変人間的な人々でした。
主イエスは弟子たちに、「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」(ルカ22:26)とお教えになり、弟子たちに天国での座を約束されました。
ペトロは主イエスの一番弟子であることを自負していたので、この議論に余裕をもって臨んでいたことでしょう。
主イエスは、シモンと呼ばれていたペトロに、これから起こることを話されました。
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:31,32)と言われました。
サタンは主イエスを信じる者を、その恵みの中から引き離そうとする存在です。
旧約聖書のヨブ記には、ヨブがサタンによる大変な試練を体験したことが記されています。ヨブは試練に勝利しています。
小麦のようにふるいにかけるとは、収穫した小麦を、殻やゴミなどと、選別することです。当然殻は捨てられます。
神は主イエスの十字架の出来事によって、弟子たちの信仰が試みられることをお許しになりました。
主イエスを信じる者には、信仰の試練があることを知らなければなりません。
最後の食事の後、主イエスはゲッセマネの園で、汗が血の滴るような祈りをされてから、逮捕されて十字架へ進んでくださいました。
主イエスがペトロにサタンが試みることを話すと、ペトロは大変勇ましく答えました。
「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております。」(ルカ22:33)
主イエスと一緒なら、投獄も死も恐れていないと答えたのです。他の福音書の平行記事は、他の弟子たちも皆同じように言っていることを記録しています。
ペトロも他の弟子たちも、主イエスにどこまでも従うつもりでした。
主イエスはペトロに、「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」(ルカ22:34)と予告されました。ペトロはなぜ主イエスがそのように言われたか理解できなかったでしょう。自分はしっかりと主イエスを信じて従っていると確信していたからです。
ところが、主イエスのお言葉はすぐにそのとおりになりました。
主イエスが逮捕され、大祭司の家に連行された時、ペトロは遠く離れてついていきました。
人々が中庭で焚火をしてあたっていたので、ペトロも何食わぬ顔でそこに座っていました。
女中さんが、焚火に照らされて座っているペトロをじっと見つめました。そして、「この人も一緒にいました」と言ったのです。
ペトロは、「わたしはあの人を知らない」(ルカ22:57)と打ち消しました。長い間従って来た主イエスを「あの人」と呼びました。
主イエスと自分が無関係であることを強調しています。
しばらくすると、またほかの人が「お前もあの連中の仲間だ」と
言いました。
ペトロは、「いや、そうではない」と答えました。
一時間くらい後になって、また別の人が「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから。」と強く言いました。
ペトロは「あなたの言うことは分からない」(ルカ22:60)と答えました。すると、まだこう言い終わらないうちに鶏が鳴きました。
主イエスは振り返ってペトロをじっと御覧になりました。ペトロは鶏が鳴く前に三度主を否むと言われたお言葉を思い出して、外に出て激しく泣きました。
自分は確かで強い信仰を持って主イエスに従っていると思っていたのですが、弱い者であることに気が付きました。
この出来事から、私たちは、信仰と試練について教えられています。
主イエスの十字架によって罪赦された私たちは、主イエスを心から愛し、従い、永遠の命の確信の中に生かされています。
しかし、恵みの中で自分の弱さを知る事は大切なことです。
自分には信仰があると思っていると、いつのまにか高慢になり、自分中心の生き方に陥ってしまいます。主イエスより自分が先立ってしまうのです。
主イエスの十字架の贖いの尊さを覚え、主イエスの執り成しによって今日も自分はあるということを忘れないようにしたいのです。
主イエスを信じる者に試練はあることを覚えましょう。
主イエスが十字架で死なれ、三日目に復活されたことを記念して、信じる者たちは、日曜日を主の日として礼拝するようになりました。
日曜日に礼拝するということは、主イエスの十字架の死による罪の贖いと、三日目に復活されたことを証しし、その信仰を告白する事なのです。
私たちも、主の復活の証人です。礼拝により、父なる神との交わりと御言葉による力をいただき、御言葉を思い起こしながら、一週間を過ごします。
そのような中で試練が襲ってきても、必ず勝利できるのです。
なぜなら、主イエスはいつも執り成して祈っておられるからです。
また、天の父は無意味な試練はお与えになりません。試練と同時に逃れの道を備えてくださいます。
試練の目的は、私たちの益となるため、そして、天の父の聖さにあずからせるためであることを覚えましょう。
「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(Tコリント10:13)
力強い御言葉に感謝します。
主イエスはペトロに、「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われました。
信仰による歩みに必要なのは、父なる神の助けと力、主イエスの執り成しの祈り、そして、信仰の友による励ましと支えです。
主イエスを信じる者の群れは、そのような祈りの群れなのです。
誰かが弱っていたら、祈り合えることはすばらしいことです。もし二人が心を合わせて祈るなら、天の父は聞いて下さいます。
主イエスは、「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:19,20)と、教えてくださいました。
主イエスの執り成しの祈りによって支えられていることを、改めて思い返し、私たちも互いに祈り合い、支え合う恵みを分かち合いましょう。
主は生きておられます。試練の時こそ、主イエスをますます信じ、近づき勝利を確信して進みましょう。

今週のみことば
「しかし、わたしはあなたのために、
 信仰が無くならないように祈った。」
 ルカによる福音書22章32節


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