阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2024年3月24日
第4聖日受難週礼拝
「十字架の愛」
Tヨハネの手紙4章9-11節

 受難週の日曜日を迎えました。主イエスが全世界の罪を贖うために十字架へと進まれた週です。
受難週に主イエスがどのように歩まれたか、聖書に従って覚えながら、一週間を過ごしましょう。
 一日目(日)  棕櫚の聖日 子ロバに乗って昼頃エルサレムへ入城された。
群衆は棕櫚の葉を振って主イエスを歓迎した。
夕刻には神殿に入られてあたりを見回られて、ベタニヤへ帰られた。
 二日目(月)  再びエルサレムへ向かわれる途中、実のないいちじくに実を求められたが、何もなかったのでこれから後いつまでも実がならない様にと宣言された。
神殿の中の商売人を追い出されて、祈りの家の本来の姿を教えられ、宮清めをされた。夕刻都の外に出られた。
 三日目(火) 朝、枯れたいちじくの木を見る。
神殿の境内で祭司長たちに、何の権威でこれらの事をするのかと聞かれた。バプテスマのヨハネの権威を例にして、逆に祭司長たちに質問したが、彼らが人々をはばかって答えなかったので、主イエスもご自分の権威について話さなかった。
やもめがささげるレプトン2枚の献金を御覧になり、信仰によってささげることを教えられた。
オリーブ山で弟子たちに、これから起こる世の終わりについて教えられた。
 四日目(水)  過ぎ越しの祭りの二日前になった。
 五日目(木) 過ぎ越しの食事の用意を弟子たちに命じられた。
夕刻弟子たちと最後の食事をされた。
弟子たちの足を洗われた。
席上、大切な教えの数々を話され、ユダの裏切りを告げる。
夜、ゲッセマネで祈りをされ、その後逮捕される。
 六日目(金) 裁判の後、十字架を背負われてゴルゴタへ向かわれる。
午前9時 十字架に架けられる。
午後3時十字架で命を捨てられる。
夕刻 埋葬。
 七日目(土) 安息日 復活を恐れるファリサイ派らは、ピラトに墓に封印し、番兵を置くように願う。
このように主イエスは一週間を歩まれました。
主イエスの十字架への道を覚えながら、祈りの一週間を過ごしましょう。
そして、日曜日の朝早く婦人たちが墓に行くと、封印されていた墓の石は転がされて、主イエスはそこにはおられませんでした。
天使たちにイエスの復活を教えられた婦人たちは、にわかに信じられませんでしたが、確かに主イエスは復活されて、弟子たちにたびたびお姿を表されて、全世界に福音を伝えるようにと命令をされたのです。
主イエスが重い十字架を背負われてゴルゴタへと上っていかれたのは、全世界の罪の身代わりとして命を捨てるためでした。
主イエスは、「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12:24)とご自分の事を証しされました。
命を捨てて多くの人々の罪の贖いとなられたのです。
主イエスの十字架は、これ以上ない神の愛の表われでした。
「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅(おど)さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」
(Tペトロ2:23,24)
私たちが罪を赦され、義とされるために主イエスは十字架で死んでくださったのです。
御言葉は、私たちの魂が生かされ、新しい命に生きられるように、主イエスをお遣わしになったと教えています。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。」(Tヨハネ4:9)
主イエスを信じる以前は、たしかに体は生きていますが、罪によって魂は死んだ状態でした。
ルカ15章には、父に遺産を求めて、家から離れて放蕩な生活の末、悔い改めて帰って来た放蕩息子のたとえが記されています。
彼は弟息子でしたが、遠くの国へ行き、好きなように遊び暮らしました。あっという間に財産を使い果たしてしまい、さらに悪いことに飢饉になり、人の豚の世話をするようになりましたが、飢えに苦しみました。
その時、我に返った息子は父の許に帰ろうと決心したのです。
悔い改めとは、生き方の方向を転換することです。もう息子として受け入れてくれなくても良い、雇人の一人としてもらおう。そう思って遠い道を帰って行きました。父親はどうだったでしょうか。まだ遠い所にいる息子を認めて、走り寄り彼を抱いて接吻しました。彼が謝る前に雇人に指輪と履物、最上の衣服を用意させて迎えました。肥えた子牛を屠って宴会を始めたのです。指輪も履物も衣服も、息子であることを表すものでした。兄はまじめに働く人でした。その日も畑から帰って来ると、家からなにやら賑やかな音楽が聞こえてきました。
雇い人に何事か聞くと、弟息子が帰って来たのでお父さんが喜んで宴会をしていると教えてくれました。
彼は怒って家に入ろうとしませんでした。父をなじると父は、「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」(ルカ15:31,32)と諭しました。
弟息子は悔い改めて、新しい命を得て、本当に生きる者になりました。
一人の罪人が悔い改めると、天では大きな喜びがあるのです。
神は遠く離れている者が帰って来るなら、喜んで受け入れ、命を与えてくださいます。
人は価値のあるものを受け入れます。石ころとダイヤモンドが並べてあって、どちらでも好きな方を選ぶように言われたら、たいていダイヤを選ぶのではないでしょうか。美しいものや価値のあるものを愛します。
ところが、神は罪人を愛されました。罪とは、神を拒絶して、神から離れて自己中心に生きる心です。
人の心は高慢であり、自己中心です。人を裁き、自分が正しい人間だとうぬぼれます。また、自分に都合の良い愛しか持つことができません。
しかし、神の愛、アガペーは、無価値な者、罪ある者を無条件に愛すというすばらしい愛なのです。
神の独り子イエスによって神の愛が示されました。
 人の罪はどのようにして赦されるのでしょうか。
たった一つの方法は、主イエスの十字架の血汐を仰ぐことです。
主イエスの十字架はわたしの為だったと確信し、受け入れる時、たちどころに罪は赦され、キリストの命に生きるようになります。新生です。
「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死人の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」(ローマ10:9,10)
私たちが真の神を知らず、その愛も知らない時から、神は私たちを愛して御子を下さり、罪を贖ってくださいました。
主イエスが身代わりとなってくださったので、私たちは救われたのです。
神はこのように愛してくださいます。愛されている者は愛を表します。神を愛し、人を愛する者に造り変えられました。
神の愛は、愛されたものによって表されます。
主イエスは、最後の食事の席で、あなたたちが互いに愛し合うことによって、皆はキリストの者であることを知ると言われました。
私たちも互いに愛し合う時、世の人は私たちが神の子であることを知るのです。神の愛に満たされ、神の愛を表す歩みを続けましょう。

今週のみことば
「わたしたちは、 わたしたちに対する神の愛を知り、
 また信じています。」
 Tヨハネの手紙4章16節



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