阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2024年4月7日
第1聖日礼拝
「良い知らせを伝える足」
ローマの信徒への手紙10章14-15節

 4月に入り、暖かくなって桜が咲きました。天の父は季節ごとに花を咲かせ、私たちを喜ばせてくださいます。創造の御業を改めて崇めます。
人が失ってしまうと、取り戻すことができないものは命です。
創造者であられる天の父は、光や闇、水と天、陸と植物、太陽と月、魚と鳥、獣と人間を造られ、七日目は休まれました。
神は人を造られ、最初の人アダムに命の息を吹き入れられ、それで人は生きる者になりました。
「人はこうして生きる者となった。」(創世記2:7)。とあります。命の息とは神の霊、すなわち聖霊の事です。人は神の霊が吹き込まれたことにより、霊的な存在として神との交わりの中に生きる者となりました。
しかし、悲しいことに人は神に背いてしまいました。
神は人を、意思を持ち、考え、判断し、行動できる者として造られました。
人はエデンで蛇にそそのかされて、食べてはならないと厳命されていた木の実を食べました。
神と深い交わりを持ちながら生きる者であっても、油断するとたちまち誘惑されて、恵みから離されてしまう事を、心に留めておかなくてはなりません。
神に背いた時から、人は神と断絶されてしまいました。滅びに向かうしかない者となったのです。
しかし、神は人を愛し、独り子を遣わされて、その十字架の贖いによって救いの道を開いて下さいました。
滅びの道を歩む者を、キリストの十字架によって命に生きる者としてくださるのです。
その良い知らせ、福音を伝える事を、主イエスは命令されました。
復活された主イエスは使徒たちに、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)とお命じになりました。
今もなお神と断絶して、滅びの道を歩む人々に、福音を伝えるのは誰なのでしょうか。
それは、さきに救われた私たちなのです。
私たちにもキリストを伝えてくれた人がいて、救われました。あるいは、伝道文書を読み、教会に導かれた人もおられるでしょう。クリスチャンである家族から導かれた人もあるでしょう。
方法や動機は違っても、救い主を信じて救いを受けたことは、何よりも尊く、素晴らしい喜びです。
人はどのようにして救われるのかと、その方法を求める人々は大勢います。
何か良い事をすればよいとか、修行をつむとか、大金を払って霊的な力があると教え込まれた品物を買うとか、世の中には偽りの救いが溢れています。
そのようなことをしても決して真の救いはありません。罪の赦しを得ることができないからです。
聖書は、まことの救いについて教えています。
「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるからです。」(ローマ10:9,10)。
主イエスは、全世界の主であり、誰でもご自分を呼び求める者を救われます。
「『主を信じる者は、だれも失望することがない』と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです。」(ローマ10:11−13)とある通りです。
そのように教えた後、御言葉は信じたことのない方をどうして呼び求められるかと質問しています。
「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう」(ローマ10:14−15)と呼びかけています。
救いの為に救い主を呼び求めるには、信じなくてはならない。信じるには福音を聞かなくてはならない。聞くためには宣教する人がいなくてはならない。宣教するためには遣わされなくてはならないと、記してあって、救い主を信じて救われるためには、このような必要を記してあるのです。
天の父が福音を伝える者を遣わされたので、救いの御業が起こされたことを覚えましょう。
「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。」(ローマ10:15)。これは、イザヤ書52章7節からの引用です。
「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え 救いを告げ 
あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。」(イザヤ52:7)イザヤはすべての罪の縄目から解放されたことの喜びを、生き生きと記しました。
足とは、もちろん体の足そのものを言っているのではなく、福音を伝えてあるく人の姿勢を言っているのです。
良い知らせはまず救い主キリストによって伝えられました。
主イエスは福音そのものであられ、最初から良い伝道者として町々村々に福音を伝えられました。
天に上げられたのち、福音は使徒たち、弟子たちが伝えていきました。
激しい迫害にあっても福音は伝えられていき、信じる者は救われて、救いは全世界に及びました。
しかし、聖書にはこのようにも記されています。
「しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」(ローマ10:16)と言っています。福音を聞いた人すべてが従ったわけではありません。
残念ですが、救いの良い知らせを聞いても、無関心な人や拒絶する人もいます。イザヤ53章1節には、「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。」とあります。
パウロがアテネで伝道した時、主イエスの復活を話すと、ある者はあざ笑い、ある者はそれについては、いずれまた聞かせてもらおうと言って信じようとはしませんでした。しかし、パウロについていき、信じた者が何人かはいました。少人数でも救われた人がいたのです。
私たちは、魂の救いは神の御業であることを忘れてはなりません。私たちがなすべきことは、救い主イエス・キリストを伝える事なのです。
宣教は、神の御業を期待し、信じながら御言葉を伝えていくことです。
実りを期待できないからと言って、種を蒔かなければ絶対に刈り取りはありません。
それ以上に、福音を伝えなければ人は信じることはできません。
今信じようとしないからといって、主イエスはその人を拒絶するようなことはありません。戸の外に立って、心の戸をたたき続けておられるのです。
救い主は、「わたしを尋ねようとしない者にも わたしは、尋ね出される者となり わたしを求めようとしない者にも 見いだされる者となった。わたしの名を呼ばない民にも わたしはここにいる、ここにいると言った。」(イザヤ65:1)と、信じようとしない者を呼び続けておられます。
私たちが、主の救いを信じ、美しい足となってこの方を伝えていくこと、これが今私たちのなすべきことであることを覚えましょう。
私たちが誰かに、イエスこそ救い主と一言伝えたなら、その人の心には救いの種が蒔かれて、聖霊が働いて信仰に至らせてくださる事を信じましょう。

今週のみことば
「良い知らせを伝える者の足は、
 なんと美しいことかと書いてあるとおりです。」
 ローマの信徒への手紙10章15節


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