阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2024年4月14日
第2聖日礼拝
「神の国についての教え」
ルカによる福音書13章18-21節

  今日も天の父を崇めて、礼拝をささげられることを感謝します。
礼拝は、私たちの信仰と生活の基本です。
天の父は礼拝者に豊かな恵みを注いで、親しくお交わりくださいます。真の神に近づき、霊と真をもって礼拝をささげましょう。
主イエスは、たとえで真理を教えられました。
「からし種」、と「パン種」のたとえで、神の国について教えておられます。
私たちは、「からし種」を見る機会はあまりありませんが、本当に細かい、小さな種です。
ある時、イスラエルから帰国された方が、からし種を下さったので、ハンカチに包んで数歩歩いてから、ハンカチの中を見たらもうありませんでした。あまりに小さい種はすり抜けて落ちてしまったのです。
それくらい小さな種なのです。
イスラエルでからし種を蒔くと、1mくらいまで大きくなるのですが、ある状況では4mにもなって、鳥が枝に巣を作る事があるのです。
イスラエルではオリーブ、ぶどう、いちじくが祝福の象徴とされています。からし種はその中には入っていませんが、主はたとえにお使いになりました。
先に申しましたように、からし種は本当に小さい種です。しかも木ではなく草に分類されるのですが、その種を庭に蒔くと、成長して木のように大きくなり、鳥が巣を作るほどになるのです。
主イエスは、「からし種一粒ほどの信仰があれば、山をも動かすことができる」と教えておられます。」
主イエスの弟子たちに、自分の息子を癒してほしいと願った父親がいました。ところが弟子たちには癒す事が出来ませんでした。
それで父親は、主イエスに癒してほしいと願ったのです。
主イエスは、不信仰を嘆かれましたが、その子を連れてくるようにと言われて、癒してくださいました。
弟子たちは主に、なぜ私たちは癒す事が出来なかったのでしょうかと聞きました。すると主は、はっきりと「信仰が薄いからだ」(マタイ17:20)と、指摘されました。
信仰が生きて働かないからだと言われたのです。
そして、「はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこへ移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない」(マタイ17:20)と教えてくださいました。
小さな、小さな信仰でも、生きた信仰であれば、必ず信仰の大きな実が約束されています。本当に励まされる約束です。
また、主イエスは、神の国は「パン種」に似ていると話されました。
「神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる」(ルカ13:20,21)と言われました。
三サトンとは、約40リットルで、100人分のパンができる量です。
当時は前回作ったパン生地を少し残しておいて、次に作る時に使います。それで発酵してパンが膨らみます。
パン種はパン生地に混ぜ込まれて見えなくなりますが、その中で働いて、パンを膨らませます。なくてならない大きな力を持っているのです。
また、聖書はパン種について、悪い影響力のあるものとしても教えています。
主イエスは弟子たちに、「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。」(ルカ12:1)と言っておられます。
ファリサイ派の偽善というパン種に影響されない様にと注意されたのです。
神の国とは、目に見えるものではなく、神様のご支配のある所が神の国なのです。
主イエスは主の祈りを教えてくださいました。「御国が来ます様に」と祈ります。神様のご支配が全地にありますようにという祈りです。
ある時、主イエスにファリサイ派が、「神の国はいつ来るのか」と尋ねました。
主イエスは、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:20,21)と教えてくださいました。
主イエスの十字架によって罪許され、神の子とされた者は、すでに神の国の民とされているのです。
「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と」喜びなのです」(ローマ14:17)とあるように、神の子の心は聖霊に満たされて、神のご支配の中にある、平安、喜び、神の義に満たされて生きるのです。
主イエスのからし種とパン種のたとえはどのような状況の中でお話になったのでしょうか。
ルカ13章10節から、安息日に腰の曲がった婦人をいやしたという出来事が記されています。
主イエスは、安息日に会堂で教えておられました。そこに18年間も病に侵され、腰が曲がったままの婦人がいました。
主はこの婦人を呼び寄せられて、「婦人よ、病気は治った」(ルカ13:12)と手を置いて宣言されました。婦人はたちどころに癒されて腰がまっすぐになり、神を賛美しました。
ところが、会堂長は主イエスが安息日に病気を癒されたことに腹を立てて、群衆に働くべき日は6日ある。その間に癒してもらうがよい。安息日はいけないと語り掛けました。
安息日は、週の七日目を安息日として聖別し、その日はどのような仕事もしてはいけないということが十戒で定められていました。
会堂長は宗教指導者としてそれを守らせようとしました。しかし、その心の中には主イエスに対する批判がありました。
主イエスは彼らに、「偽善者よ」と呼びかけられて、誰でも安息日でも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いていくではないか。この婦人はアブラハムの娘なのに、18年間もサタンに縛られていた。この婦人を安息日であっても癒し解放してやるべきではないかと言われたのです。
最もなお答えです。彼らは皆恥じ入り、人々はその御業を見て喜びました。
主イエスは安息日の本当の意味を教えておられます。安息日に休むのは、自分が休むためもありますが、その当時、家で働いていたしもべを休ませるためもあったのです。
安息日とは、かつてエジプトで苦役に苦しんでいたイスラエルが解放された恵みを忘れず、感謝し、まだ主の恵みを知らず捕らわれている人々に、解き放たれた恵みを教えるために定められているのです。
私たちは日曜日に礼拝をささげます。
主イエスは、私があなたのために十字架に架り、全ての罪から解放して、命を与えたと、宣言されているのです。
私たちもまた、礼拝によって主イエスの復活と救いを証言しているのです。
この癒しの出来事の後で、主イエスはたとえでお教えになりました。小さなからし種、混ぜてしまえば見えないパン種、そのような小さなものが大きな結果をもたらすことを知らなければなりません。からし種もパン種も生きています。
私たちはからし種ほどの信仰を持っているでしょうか。また、新鮮で生きているパン種を持っているでしょうか。神の国で生かされていることをいつも覚えているでしょうか。神の国の命、永遠の命に生かされていることを何より感謝したいと思います。
私たちは、いつもキリストの芳しい香りを放ちながら、やがては大きな主の御業のために、さらに用いられていくことを信じましょう。
神の国が大きく広がっていくことを感謝し、山をも移す信仰によって歩み続けましょう。

今週のみことば
「ただ、神の国を求めなさい。
 そうすればこれらのものは加えて与えられる。
 小さな群れよ、恐れるな。
 あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」
 ルカによる福音書12章31-32節


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