阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2024年4月21日
第3聖日礼拝
「見失った羊を探して」
ルカによる福音書15章1-7節

 父なる神をほめたたえます。天の父は私たちにいつも最善をなしてくださいます。きょうも天の父を待ち望み、礼拝をささげましょう。
きょうは、ルカによる福音書15章1節以下の「見失った羊」のたとえというタイトルの個所から御心を探りましょう。
主イエスの許に、徴税人や罪人が皆、やって来て教えを聞こうとしていました。
徴税人は、税を取り立ててローマ帝国に納めるだけではなく、余計に取り立てて、自分の収入にしてしまうことが知られていて、大変嫌われて社会から排除されていました。
また、はっきりと、「罪人」と指摘されている人もいたのです。律法が禁じている仕事をしていたり、律法を守ることのできない人々を罪人として、ファリサイ派は退けていました。
主イエスは、人々から排除されている、そのような人々と食卓を囲まれました。
彼らは主イエスの御言葉を聞きたいと、御許にやってきました。
すると、ファリサイ派や律法学者たちは、主イエスを批判しました。
「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言い始めたのです。
なぜ、主イエスを批判する事が出来るのでしょうか。それは、自分は聖い、正しい人間だとうぬぼれて、そう思い込んでいたからです。
すると主イエスはたとえで教え始められました。
「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」(ルカ15:4)
九十九匹を野原に残してとは、人家などまったくない、荒野に放っておいてという意味があります。
羊飼いは、九十九匹は放っておいて、見失った羊を探し回るのです。
いなくなった羊とはどのような羊でしょうか。特別大切な高価な羊ではありません。群れの中の普通の羊です。
しかし、別の羊を見失っても羊飼いは探しに行くでしょう。
羊飼いは九十九匹も残っているのだから、一匹くらい失っても構わないとは思いません。
羊飼いにとって、その一匹がどれほど大切か、その一匹をどれほど愛しているかが、わかるたとえ話です。
羊飼いは見つけ出すまで羊を探し回ります。そして見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰ります。
「そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください。』と言うであろう。」(ルカ15:5,6)
羊飼いの喜びがどれほど大きいものかがわかります。
友達や、近所の人たちもその喜びを分かち合います。
主イエスは、ファリサイ派たちにも、何とかしてその喜びを知ってほしいと願っているのです。
神の救いと恵みから離れてしまった魂を羊飼いは探して、御自分の御許に引き戻されるのです。
聖書は、救い主と人との関係を、羊飼いと羊にたとえて教えています。
イザヤ書40章11節には、「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め 小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」とあります。
羊飼いが羊をどのように愛してくださるかがわかる御言葉です。
すなわち、羊飼いは羊を養います。毎日必要な糧を与えます。その腕に羊をひきよせます。小羊をふところに抱いてくれます。
羊飼いは、羊をいつも安全な道へと進ませるのです。
羊にとって羊飼いは命を守ってくれる存在であり、生きる力であり、希望と平安を与えてくれる存在です。
羊は羊飼いがいなければ、生きることができないのです
またあまりにも有名な詩編23編には、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」(詩篇23:1)と、絶対的な信頼が告白されています。
羊飼いは羊を青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださいます。からからに飢え渇いた心と魂に、命の糧を豊かに与えて憩わせてくださるのです。
さらに、「死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない」と、共におられる羊飼いに信頼を置いています。
試練やさまざまな苦しみの中にあっても、羊飼いは食卓を整えて養い、慰め、力を与えます。
頭にかぐわしい聖霊を注ぎ、魂を溢れさせてくださるのです。
この世にあって、恵みと慈しみが追いかけて来る。そして、主の家にいつか迎えられて、永遠に住まうという希望があります。
また、主イエスはご自分のことを良い羊飼いと紹介しておられます。
「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:10,11)と宣言されました。
この御言葉の前には、「私は羊の門」と言われています。
羊は夕方野から帰って、羊の囲いの中に入ります。この囲いで夜を過ごします。石が積まれてある囲いで、数か所入り口があります。それが門です。その門には、夜中、羊飼いがいました。恐ろしい獣や泥棒が入り込まない様に見張っていました。
朝になると羊飼いは羊の名前を呼んで門を出て、新鮮な草や、きれいな水のある所に導いて行きます。
「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」(ヨハネ10:9)
門である主イエスを通る、すなわち受け入れる者は救われます。豊かな命にあずかります。
「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」(ヨハネ10:14,15)
父なる神と主イエスは密接なきりはなせない一つの関係です。それと同じような深い関係が羊飼いである主イエスと、羊である人との間にあると教えておられます。かけがえのない関係、他のものと比較できない関係が教えられています。
そのようなキリストとの関係に生かされている羊を見失ったとき、羊飼いは探し回ります。
それは、羊に対する愛によるのです。十字架の愛です。
羊の名を呼びながら、見つかるまで探されます。
愛されている羊は私たち一人一人です。どれくらいの愛で愛されているかは、御言葉の数々でわかります。御子が十字架で命を捨てられたことでわかります。
「わたしはとこしえの愛をもってあなたを愛し 変わることなく慈しみを注ぐ。」(エレミヤ31:3)
どのように罪深く、神に背くような者であっても、永遠の愛をもって愛され、その愛は世の中が変わり、状況が変化しようとも、決して変わることはありません。
私たちがたとえ誠実でなくても神の愛と慈しみは注がれ、救いの御手は延ばされています。
「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである。」(Uテモテ2:13)
私たちもかつては羊飼いの許から迷い出た羊でした。羊飼いの愛による熱心な探索によって、羊飼いの許に帰ることができました。永遠の命と平安をいただいて生きています。私たちが救い主の許に戻ったとき、天には大きな喜びの声が上がりました。
このすばらしい恵みをいたずらに受けることなく、その愛に応答して参りましょう。
主イエスを信じ、その御声を良く聞き、どこまでも従って参りましょう。

今週のみことば
「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め 
小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」
 イザヤ書40章11節


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