阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2024年4月28日
第4聖日礼拝
「失った銀貨のたとえ」
ルカによる福音書15章8-10節

 今日も私たちの天の父なる神を賛美しましょう。霊と真をもって礼拝をささげましょう。
ルカによる福音書15章には、主イエスがお語りになった三つのたとえが記されています。先週は、羊飼いは見失った一匹の羊を見つけだすまで、九十九匹を野に置いて探し回り、羊を見つけたら肩に担いで家に帰り、友人や近所の人々と喜びを分かち合うというたとえによって、良い羊飼いである主イエスのお姿を知る事が出来ました。
二つ目のたとえは、無くした銀貨のたとえです。
主イエスは、「あるいは」と話し始めておられます。このたとえは、見失った羊のたとえと一緒に教えておられると考えられます。
ドラクメ銀貨を10枚持っていた女の人が、その1枚をなくしてしまいました。1ドラクメとは、1デナリと同じ価値があります。
一日分の労働の賃金と考えられます。
ですから10ドラクメとは10日分の賃金に相当する価値がありますが、それほどの大金ではありませんでした。
しかし、銀貨の金額よりも、大切なものでした。
当時女性が結婚する際、持参金として銀貨を何枚かネックレスにして、首にかけていました。
大切な銀貨なのです。
それが、糸が切れてしまったのか、ばらばらになって落ちてしまいました。
9枚は見つかったのですが、1枚だけどうしても見つかりません。
それで女の人は」、ともし火をともして家の中を明るくして、ほうきで家をはき、見つかるまで一生懸命さがしました。
家の中は土間で、そこに藁やイグサなどが敷いてありました。そこから1枚の小さなコインを探し出すのは難しいことでした。
女の人は、あかりとほうきで、なんとかして見つけ出そうとします。
そして、とうとう銀貨を見つけました。その喜びは大きな喜びでした。
主イエスは、「そして見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。」(ルカ15:9)とお教えになりました。
迷った羊は鳴き声をあげて自分のいる所を教える事が出来ますが、銀貨は物ですから、見つけてもらわなければ持ち主の許に帰ることはできません。
ですから、このたとえは、失われた人が、神の許に帰れるのは神の愛の御業であることを明確に教えています。
一枚の銀貨を見つけ出した喜びは、大きな喜びでした。
無くした銀貨を見つけ出されて持ち主に戻されるとは、一人の罪人が悔い改めることを意味しています。
神から離れてしまった者が、神に立ち帰る事を教えているのです。
失われていた魂が見いだされて救われるなら、主イエスは「神の天使たちの間に喜びがある。」(ルカ15:10)と言われました。
失われてしまった1枚の銀貨とはいったい誰の事なのでしょうか。
それは、私たち人一人の事なのです。
銀貨を探し出そうとする女の人は主イエスご自身です。
1ドラクマには大きな価値はありません。
私たちには果たして価値があるのでしょうか。ときどき自分を省みて、はたしてどのような価値を持っているのだろうかと考えることがあるかもしれません。
私たちは天の父にどのように受け入れられているのでしょうか。
天の父は、私たち一人一人に、「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの」(イザヤ書43章4節)と語り掛けてくださいます。神様にとってかけがえのない存在として受け入れてくださっているのです。
それは、神の独り子を十字架に架けても惜しくないほどの愛によります。
ルカによる福音書19章には、徴税人ザアカイの出来事が記録されています。
エリコという町に徴税人をしているザアカイがいました。彼は徴税人の頭で金持ちであったと記されています。
主イエスがエリコヘ来られて町を通られました。ザアカイは主イエスがどのような人か見たいと思いましたが、群衆に遮られて見る事が出来ませんでした。それで、走って先回りをして、いちじく桑の木に登りました。そこを通り過ぎようとされていた主イエスを見ようとしたのです。
主イエスはその場所に来ると、上を見上げられて、「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(ルカ19:5)と語り掛けられました。
ザアカイは急いで降りて来て、喜んで主イエスを家にお迎えしました。
これを見た人々は、「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」(ルカ19:7)とつぶやきました。
ザアカイは、自分が罪深い人間であることがわかっていました。それは、徴税人という仕事をしていることではなくて、人間のもっている罪がわかっていました。しかし、それをどうすることもできずにいました。
そして、人々からは蔑まれ、社会からは締め出されるという苦しい生活を続けていました。
確かに彼は金持ちであったかもしれませんが、お金や財産で心を満たすことはできません。ザアカイの心の中の闇や、孤独を癒してくれる存在は今まではありませんでした。
ところが、主イエスが自分の家に泊まってくださった、すなわち自分を受け入れてくださったということが嬉しくて、ザアカイは悔い改めをすることができました。
ザアカイも見失った1匹の羊であり、見失った1枚の銀貨のような存在だったのです。
ザアカイは、新しい決心をして、告白しました。
彼が立ち上がったのは、新しい決心を示します。今までの生活を捨てて、新しい信仰の出発をするという決心の表われでした。
ザアカイは、信仰の告白をしました。
「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたなら、それを四倍にして返します」。(ルカ19:8)。罪許され、魂を新しくされたザアカイは、自分の生活を新たにしたいと思い、このように決心しました。
主イエスは、「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを探して救うために来たのである」(ルカ19:9、10)と言われたのです。
このザアカイの出来事からも、見失った銀貨のたとえの意味がよくわかります。
主イエスは、失われた者、すなわち見失った銀貨や、羊を探し求めておいでになる。真の神から離れて罪の道を彷徨い、失われたまま滅びに向かう者を救うために、この世に来てくださいました。
ザアカイも1匹の羊であり、1枚の銀貨でした。
良い羊飼いである主イエスは、羊の為に命を捨てて下さいました。
人の罪を背負われて、主イエスは十字架に架って命を捨てて下さいました。
十字架の贖いなしには、罪が赦され真の神に立ち帰ることが出来ないからです。
私たちは、主が十字架で受けられた傷によって罪許され、癒されました。私たちは、魂の牧者、監督者であられる救い主の許に戻る事が出来ました。この方が熱心に探し求めてくださったからです。
「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」(Tペトロ2:25)
魂の大牧者に導かれる者は、いつも平安と命に満たされます。
私たちの周囲にも、見失ったままでいる魂がいます。
主イエスはそのような魂を求めて探しておられるのです。
主イエスこそ真の神、救い主であることを私たちは伝えて行きたいのです。
見つけ出すまで、探し出すまで、主イエスと共に働く者とし、整えられ、用いられるように祈り続けましょう。天における大きな喜びに私たちもあずかりましょう。

今週のみことば
「人の子は、失われたものを探して
 救うためにきたのである。」
 ルカによる福音書19章10節


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