阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2024年5月5日
第1聖日礼拝
「父の愛」
ルカによる福音書15章31-32節

 すばらしい礼拝の恵みを、きょうも感謝します。私たちの天の父を心からほめたたえましょう。
きょうは、ルカによる福音書15章に記録された3つのたとえ話の最後のたとえから、神の御心を探りたいと思います。
これは、「放蕩息子のたとえ」ということで、良く知られている箇所です。たびたび説教でも取り上げられているところですから、皆さんも良くご存じの教えだと思います。
このたとえには、主に親子3人が登場します。父親、兄息子、弟息子です。
兄息子は大変まじめで、お父さんの言うことを良く聞き、勤勉に働く人のようでした。ところが、弟息子はそうではありませんでした。
父親に、「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください。」と要求しました。財産の相続は、父親が年を取って財産の管理が出来なくなった時に行われました。そして、兄息子と弟息子の財産の取り分は違います。兄が弟の二倍を相続しました。
父親はまだ年を取ってはいないのですが、二人の息子に財産を分けてやりました。
弟息子が父親に要求していることは、考えられないくらい非常識で、ひどいことでした。
弟息子はすぐに財産をお金に換えて、遠い国に旅立っていきました。
家からも父からも自由になって、気ままに好きなように生きられると思いました。
彼は遠い国で財産を生かして使い、立派に自立できればよかったのですが、そのような生き方はできませんでした。
なんと、放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまいました。
何もかも使い果たしてしまったとき、大飢饉が襲いました。
彼は食べることができずに困り果てて、ある人の所に身を寄せました。
無理やり頼み込んですがりついたと、考える事が出来ます。
すると、その人は、弟息子を畑にやって豚の世話をさせました。
律法で豚は汚れた動物とされていて、ユダヤ人は豚を食べません。豚の世話をしなければならないとは、これ以上ないほどの侮辱であり、落ちぶれ方でした。
彼は豚の飼料のいなご豆さえ食べたいと思うほど、飢えていました。
それでも食べ物をくれる人はだれもいませんでした。
それで、彼は「我に返った」のです。
我に返るとは悔い改めることで、本来自分がおるべき所があると、気が付くことです。生き方の方向を正しくするのです。
彼は、「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、身に余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。』と。」(ルカ15:17−19)このように心に思い、父の家に向かって歩き始めました。
一方、父親はどうだったでしょうか。
勝手な事を言って家を出てしまった息子だから、もうどうなってもかまわないとは思いませんでした。
毎日遠くの方を見て、息子が帰ってくるのを待っていました。
まだ遠くの方にいる弟息子の姿を見つけると、父は走り寄って抱きました。普通ユダヤの年長者は威厳を保つために走りません。
息子が近づくのをゆっくりと待つのが普通でした。しかし父は走り寄るほど、息子を待ち続けていたのです。
息子の落ちぶれた惨めな姿を見て、かわいそうに思い、その首を抱いて接吻しました。
弟息子は、父に心から悔い改めの言葉を告げました。
「もう息子と呼ばれる資格はありません」(ルカ15:21)
父は、それには返事をしませんでした。しかし、僕たちに「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。」(ルカ15:22)と命じました。
父親は息子に3つの物を与えました。
これは3つの祝福のしるしです。いちばん良い服は、長子の権利をあらわします。弟息子は長子ではないのに、この権利が与えられました。
指輪は権威をあらわします。
私たちは主イエスの名により祈ります。これは主イエスの権威によって祈るということです。私たちにも主イエスの権威が与えられていることを覚えたいと思います。
さらに、履物ですが、これは息子であることをあらわします。奴隷は履物を履くことができません。
雇い人でも、奴隷でもなく間違いなく息子であることを表しました。
父の息子の帰還の喜びの大きさが良くわかるのです。
さらに、父は肥えた子牛一頭を料理して宴会を開きます。子牛一頭を屠ると、村中の人を招いても十分なごちそうになりました。
この宴席に帰って来た弟息子は連なりました。
一方、兄息子が一日畑で働いて帰って来ると、家の中から賑やかな音楽や踊りの音が聞こえてきました。
彼は家に入らずに、僕を呼んで、これは何事かと聞きました。
僕は弟が帰ってきたこと、父親が喜んで子牛を屠り、宴会を始めたと教えました。
すると、兄息子は怒って家に入ろうとしませんでした。
兄の怒りが大きいことは、「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。」と話し始めたことから分かります。
このような話し方は父に対して非常に失礼なのです。話を始める時は、尊敬を込めて「お父さん」、と話し始めるべきなのに、いきなり自分のことを話し始めています。
そして、弟の扱いの不公平さをなじりました。
「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。」(ルカ15:29,30)。
彼は父の喜びを理解できませんでした。
罪人や、徴税人と食事をともにする主イエスを非難した、ファリサイ派をあらわしているのです。
父は、「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなったのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」(ルカ15:31,32)と語り掛けました。
ルカ15章の3つのたとえは、神から離れて失われたものが神の許に立ち帰るというテーマで語られています。
失われた一匹の羊、失われた一枚の銀貨、そして、父の許を勝手に離れて落ちぶれてしまった息子、三例とも神の許に帰ったときには、大きな喜びがあり、天で祝宴が開かれました。
天の父は、罪人を愛し、待ち続け受け入れてくださいます。
主イエスが地上に遣わされて十字架に架られたのは、正しいと自認している者のためではなく、罪のために苦しみ嘆く人々のためでした。
徴税人であったレビ(マタイ)をお召しになった時、主はレビの家で食卓に着かれました。多くの徴税人や罪人もその席に連なっていました。
それを見たファリサイ派や律法学者たちは、主イエスを非難しました。
主は、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2:17)と言われました。
人は皆罪を持ち、それぞれが好きな道を歩み続けます。しかし、行き先はどこなのでしょうか。滅びの道を進むのです。
悔い改めて主イエスが差し出す救いの手にすがる時、直ちに神の子とされて、ありとあらゆる天の特権と恵みにあずかります。
天の父は測り知れない愛で罪ある者を愛し、赦し、受け入れてくださいます。
神は愛である。愛の神をほめたたえましょう。

今週のみことば
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である、
 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、
 罪人を招くためである。」
 マルコによる福音書2章17節


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