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阪神チャペルセンター
礼拝メッセージ |
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「わたしの友」
ヨハネによる福音書15章14-15節 |
今日も、私たちを愛してくださる天の父に、霊とまことをもって礼拝をささげましょう。
礼拝は、自分自身を神に喜ばれる聖なる生きた供え物として、ささげることです。
「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマ12:1)。
この御言葉を覚えながら、礼拝をささげて参りましょう。
主イエスは十字架に架られる直前、弟子たちと最後の食事をなさいました。
その席上では、大切なことをお教えになりました。
主イエスは御自分を「まことのぶどうの木」と証言されて、主イエスにつながっていなければ、実を結ぶことはできないと教えられました。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:5)。
また、主の愛について、教えてくださいました。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」(ヨハネ15:9)。
さらに、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ15:12)と、この教えをしっかりと守るようにというお言葉を語られました。
これらのことをお話になったのは、「私の喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」(ヨハネ15:11)とあって、喜びが満たされるためであることがわかります。
主イエスは、72人の弟子たちを伝道の為に町々村々へ派遣されたことがありました。72人は喜んで帰ってきました。主の御名によって、悪霊どもまで屈服するという体験をしたからです。
すると主は、サタンが屈服するからといって喜んではならない。「むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(ルカ10:20)と教えてくださいました。
主イエスを信じた者は「命の書」に名が記されています。主イエスの十字架の贖いによって、罪が赦され、救われて永遠の命をいただいたことを喜びなさいと言われているのです。
そして、主イエスは、聖霊によって喜びに溢れて祈られました。
主イエスの喜びは、聖霊による喜びであり、人が救いを受けて、天に名が記されることであることを覚えたいと思います。
主イエスを信じ、その命に結ばれるなら、主イエスの喜びが湧き上がるのです。
主イエスが私たちを愛しておられるように、主イエスを信じる者は、愛する者に変えられていきます。
主は、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」
(ヨハネ15:13,14)と言われました。
互いに愛し合うなら、あなたがたは私の友だとお言葉を下さいました。
主イエスはわたしたちを友と呼ばれ、その友の為に十字架で命を捨てて下さったのです。
これ以上の大きな愛はありません。主イエスの計り知れない愛によって救われたことを感謝します。
主イエスは主を信じる者たちを、もはや僕とは呼ばないと宣言されました。僕は主人が何を考え、何をしようとするのか知らされません。ただ命令されたことを実行すればよいのです。
主人とも、親密な交わりを持つこともありません。
ただ理由を知ることもなく、命じられたことに黙々と従うのが僕なのです。
友は、一緒にいて、寄り添い、心の悩みや不安を覚えるような時に、慰め励ましてくれる存在です。
旧約聖書には、すばらしい友情で結ばれたダビデとヨナタンの事が記されています。
ダビデは羊飼いをしているときに、イスラエルの二代目の王として選ばれ、油を注がれました。
ヨナタンは初代の王、サウルの息子でした。
サウルは、ダビデがすべてに祝福を受け、戦いに出れば必ず勝利することに嫉妬して、憎むようになりました。
ヨナタンは、サウルがダビデを殺そうとしていることを知って、危険を知らせて、ダビデを逃亡させました。
立場が違っても、ヨナタンはダビデに深い愛情をもっていたのです。
ヨナタンは、父サウルがどれほどダビデを憎み、命を狙おうとしても、その心は決して変わりませんでした。
愛は人を助け、救います。
主イエスは、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって、父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」
(ヨハネ15:16)と、主イエスに従う者に改めて御心をお示しになりました。
主イエスの友である者に、あらためて使命を明確にされたのです。
友とは誰でしょうか。主イエスの十字架によって救われ、永遠の命をいただいた私たち一人一人です。
主イエスに選ばれている私たちの事です。
私たちが主イエスを信じる者になったことは不思議なことです。
クリスチャンホームに生まれて、主イエスを信じた人がいるでしょう。
誰かが伝道してくれたので、主を信じた人も多いと思います。
ある人は、教会のない町に生まれて、ラジオの福音放送を聞いて、信じたいと思いました。やがて教会に導かれて洗礼を受け、しっかりとした信仰に生きる事が出来ました。
救いの動機は様々ですが、心に主イエスを受け入れる事が出来たのは、不思議な聖霊の業です。主イエスは選んでくださいました。
主イエスの御心は、選ばれ救われた者が実を結ぶことです。
そのために私が任命したと言われました。
この任命したという言葉は、土台を据える、あるいは土台を置くという意味の言葉です。
13節の、「友のために命を捨てること」という言葉の中の「捨てる」という言葉が、同じ言葉なのです。単に命を捨ててしまうのではなく、主イエスの目的の為に「据えて」くださる事なのです。
あらためて主イエスの御心を覚えることができました。
まことのぶどうの木である主イエスに結ばれて、主イエスの命で生かされていることを感謝します。主につながっているなら、かならず実を結ぶのです。
主イエスは私たちを遣わされて、ご自身の御業の為に用いてくださいます。私たちはたった一人ではなく、主イエスが共におられます。
主イエスが私たちにその使命を全うさせてくださいます。
まことの救いを受けたいと願う魂は多いのです。
遣わされ、御言葉を伝え、聖霊による救いの御業を見る事が出来る。
救いの実がいつまでも残ることを見る事が出来るのです。
主の愛に感謝し、私たち自身が選ばれ、任命された者として用いられるように、さらに祈りましょう。
今週のみことば
「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。
僕は主人が何をしているか知らないからである。
わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」
ヨハネによる福音書15章15節
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