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阪神チャペルセンター
礼拝メッセージ |
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「闇から光の中へ」
マルコによる福音書4章21-23節 |
私たちを愛して、守り支えて下さる天の父を心より賛美します。
礼拝の民として整えられ、きょうも御前に近づけることを感謝します。
礼拝は私たちの信仰告白であり、生活と信仰の土台です。
天の父の臨在の中に、喜びをもってさらに近づきましょう。
主イエスの十字架によって、罪が赦され、神の子とされて永遠の命を与えられた者は、信仰によって歩みます。歩むとは、生活していくという意味です。
信仰を保ち、成長するためには神の言葉によって養われなくてはなりません。御言葉なしの信仰はあり得ないのです。
今日のテキストの直前には、種を蒔く人のたとえが記されています。
主イエスは「種」とは、神の言葉であると言われました。
道端、石だらけの土地、茨の中に落ちた種はそれぞれ実を結ぶことはできません。この世の思い煩いや、その他いろいろな欲望が御言葉を覆いふさいでしまうからです。御言葉に無頓着なら、すぐにサタンが奪い取ってしまうとも教えています。
良い地に蒔かれた種は、御言葉を聞いて受け入れる人たちの事であり、「ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶ」(マルコ4:20)と約束されています。
私たちは、主イエスを信じて御言葉を聞き続けています。聖霊は私たちの心を、御言葉を聞いて従う良い地にしてくださいました。
豊かに信仰の実を結び、その実が残ることを信じます。
種を蒔く人のたとえに続いて、ともし火と秤のたとえが語られています。
ともし火のたとえは、ルカによる福音書にも平行記事があります。
マルコの記事には特徴があります。
それは、「ともし火を持ってくるのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか」(マルコ4:21)。
ともし火を持ってくるのはというお言葉です。
ともし火とは、油をいれたランプの事で、当時は夜に必要な明かりでした。大切な必需品で,ともし火がなければ真っ暗になってしまいました。
それほど大きなともし火皿ではありませんから、人の手であちらこちらに移動させる事が出来ました。
聖書には、「ともし火を持ってくるのは」とありますが、もともと「ともし火がやって来るのは」という言葉が使われていることに注意したいと思います。
ともし火がやって来るということなのです。不思議な表現です。
灯りは暗闇を照らします。小さな灯りが一つあると、もうそこは暗闇ではなくなります。
主イエスは光としてこの世に来てくださいました。世を照らすまことの光です。罪の闇の中にある人々が光を信じて救われるために来られたのです。
命そのものである主イエスはまことの光です。
「この命は人の光であった。光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。」(ヨハネ1:3−5 聖書協会共同訳)。
人は、罪から解放されたくても、この世には解決方法はありません。
罪とは自己中心であり、真の神を信じない事です。
人の心の中にはどうすることもできない罪があります。
「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。」(ローマ1:29−32)。
ローマの信徒への手紙には、このように人の罪が記されています。
罪を持ちながら歩むのは、暗闇の中を歩むことであって、天の御国に入ることはできません。そのような闇の中に主イエスはまことの光として来てくださったのです・
詩編119編105節は、良く知られている御言葉だと思います。
詩編119編は、大変長い詩編で、176編までありますが、神の御言葉を慕い、御言葉によって生きることをうたっている詩編です。
「わたしは仰せを心に納めています。あなたに対して過ちを犯すことのないように」(詩篇119:11)。罪を犯すことのないように、御言葉を心に蓄えたという意味の御言葉です。また、「どのようにして、若者は 歩む道を清めるべきでしょうか。あなたの御言葉どおりに道を保つことです。」(詩篇119:9)。若者に限らず、人は皆御言葉によって正しい道を歩むことができるのです。
さらに、「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯」とあります。
主イエスはまことの光であり、真理の御言葉そのもののお方です。人が歩むべき道を照らして下さり、迷う事なく主イエスの道を歩ませてくださいます。
主イエスは、「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか」(マルコ4:21)と言われました
升というのは、主に食料をはかる器ですが、当時は明かりを消す役割もあったようです。升をかぶせて火を消すのです。
寝台とはベッドですが、ともし火を使わない時は、ともし火皿をベッドの下に置いていたようです。
主イエスは、灯がやって来ているのに、それを消すようなことがあってはならないと言われているのです。
ともし火は燭台の上で輝くのです。
主イエスはまた、「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められもので、公にならないものはない」(マルコ4:22)と教えておられます。
光はどれほど隠しても隠し切れません。隠れているように見えても、主イエスの福音は公にされるのです。
今は素晴らしい恵みの時であり、救いの日です。まことの光がやってきたのです。だれでも光を信じて光の子とされます。
主イエスはすでに、十字架で罪の代価を払われました。
だれでも主イエスを信じる信仰によって、救われます。
フィリピで伝道していたパウロとシラスは、占いの霊に取りつかれていた女奴隷を癒したことから逮捕されて、何度も鞭打たれて、足枷までつけられて牢の一番奥に入れられてしまいました。牢獄は闇でした。
鞭の痛みもあったでしょうに、真夜中ごろパウロとシラスは賛美をしていたのです。囚人たちは賛美を聞いていました。
突然地震が起こり、牢獄の戸は皆開きました。看守は囚人が皆逃げてしまったと思い、自殺しようとしました。囚人を逃がしたら死刑になるからです。囚人はだれも逃げませんでした。看守は明かりを持ってこさせたとあります。暗闇の中に明かりが持ってこられたのです。そこはもう闇ではありませんでした。看守は救いを求めました。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたも家族も救われます」(フィリピ16:31)。
その夜のうちに主イエスを信じた家族一同は喜びに満たされ、洗礼を受けました。闇から光へと移されたのです。
主イエスの光が照りわたりました。
この光は私たちにも輝いています。
主イエスは聞く耳のある者は聞きなさいと言われました。御言葉に聞き、光のあるうちに光を受け入れて、光の子として歩み続けましょう。
救いの灯をかかげ続けましょう。
今週のみことば
「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」
ヨハネによる福音書1章5節
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