阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2024年7月7日
第一聖日礼拝
「嵐の中でも」
マルコによる福音書4章35-41節

 7月第一週の日曜日を迎えました。きょうも心を合わせて主を見上げ、霊と真をもって礼拝をささげましょう。
 先週に続き、今日もマルコによる福音書を通して、尊い御心を求めて参りましょう。
マルコ4章35節には、その日の夕方になって、主イエスが湖の向こう岸へ渡ろうと弟子たちに言われたとあります。
その日、主イエスは種まく人のたとえや、灯と秤のたとえ、成長する種のたとえ、からし種のたとえなど、数々の教えをなさいました。これらは神の国についての大切な教えでした。
弟子たちが主イエスに、たとえで教えられる理由をお聞きすると、主は、「彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない」(マルコ4:12)。このようになるためだと言われました。
主は、イザヤ書6章9節の御言葉を引用されました。
心を開き、主の御言葉を信じ受け入れる者には、たとえは理解できて、御国への道となりますが、心を開かず、聞こうとしない者にとっては、救いとならないのです。
ですから、主イエスはたびたび「聞く耳のある者は聞きなさ」い(マルコ4:23)」と言われました。
私たちも、霊の目と耳がいつも開かれていて、御言葉を聞いて悟り、信じる者でありたいと願います。 
夕方になって、主イエスは弟子たちに、ガリラヤ湖の「向こう岸に渡ろう」と言われました。弟子たちは、舟に乗られた主イエスと共に、舟を漕ぎ出しました。
ガリラヤ湖は東西に約12キロ、南北に約20キロの大きな湖ですが、海抜が低く、ヘルモン山から冷たい風が吹き込み、湖が荒れるのもしばしばでした。
この湖で漁師をしていたペトロをはじめとして、弟子たちがいたので、それほど困難もなく、舟は目的地に到着するはずでした。
ところが途中、激しい突風が起こって、舟は波をかぶり、水浸しになりました。舟に水が入ってしまうと、バランスを崩して転覆してしまいます。
舟が突風で揺れに揺れていた時、艫で主イエスは眠っておられました。
舟の艫とは、船尾ですが、枕をして寝ておられたのです。ぐっすり眠っておられました。
弟子たちは、ガリラヤ湖の漁師をしていて、嵐の経験もあったのでしょうが、今回は大変恐れて、慌てふためいていました。
「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と、主を起こしました。おぼれるという言葉には「滅びる」という意味がありました。
ですから、弟子たちは私たちが死んでも構わないのですかと、死の恐怖を訴えました。
すると、主は、起き上がって風を叱り、湖に、「黙れ、静まれ」(マルコ4:39)と命令されました。
すると、たちまち風はやみ、すっかり凪になりました。
主イエスは弟子たちに、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」(マルコ4:40)と言われたのです。弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」
(マルコ4:41)と、互いに言いました。
自然界はすべて全能の神、創造主の支配下にあります。人の命も神の御手の中にあります。
ただ神の前に謙り(へりくだり)、全能の御手を待ち望むことは大切なことです。
主イエスは弟子たちに、向こう岸に渡ろうと言われました。主イエスが先に舟に乗られて、弟子たちが従いました。
主イエスには、向こう岸に行かなければならない理由がありました。弟子たちには知らされていません。
マルコによる福音書5章には、ゲラサ人の地方に着いたとあります。
ここで一人の人との出会いがあり、救いがもたらされました。
悪霊に縛られて、苦しみ抜いていた人が、主イエスによって解放されたのです。
主イエスは、孤独と病い、社会からの拒絶に苦しむ一人の人を癒されるために、舟に乗られました。
癒された人は、主イエスに従って行きたいと願いましたが、主は「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」(マルコ5:19)と言われました。
この人は、主イエスについていくことは許されませんでしたが、主イエスが自分にしてくださったことをすべて、この地方の町々に言い広めました。
主イエスの救いを証ししたのです。
このように。主イエスが舟に乗られたのには目的があったのです。一人の人が救われるためでした。
私たちの日々は、主イエスが乗りこまれている舟に乗って、湖を渡っているように考える事が出来ます。
自分自身の目的地を先に考えるのではなく、主イエスの目的地に進んでいくのです。主は私たちを、主が運んでくださったところで、必ず主の業に用いてくださいます。
信仰を持って、主に従う者にも、時に大きな試練があります。
聖書の中で有名なのは、ヨブの受けた試練でしょう。ヨブは神の前に、これ以上ないほど正しく歩んだ人でした。それなのに、大きな試練を受けました。財産、子供たちを失い、自分は頭の先から足の裏まで嫌な腫物ができて、陶器のかけらで、体中を?きむしらなければならない状態になってしまいました。ヨブの妻は「神を呪って死になさい」と言いましたが、ヨブは「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」(ヨブ2:10)と答えました。話しかけられないほどの、ひどい苦痛の中でも、言葉で罪を犯すことはありませんでした。
私たちにも試練はあるでしょう。突風や大嵐のような試練を受ける時、どのように思うでしょうか。天の父は意味のない試練はお与えになりません。私たちに必要な信仰の訓練なのです。
試練は、神の神性にあずからせる目的があると、聖書は教えています。
「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(ヘブライ12:11)。
ヨブは試練に打ち勝って、以前よりはるかに大きな祝福をえました。
私たちの日々はどうでしょうか。主イエスが同じ舟におられます。
そして、主イエスの目的地まで導いて下さいます。
大嵐でも守られているのです。
今、あなたの持っている問題は何ですか。あるいはどのような試練に苦しんでいますか。
主イエスは、すべてを御存じで、委ねるように促されています。
「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(Tコリント10:13)
主イエスが共におられます。信仰によってすべてが勝利に変わります。
信仰とは、順境の時も、逆境の時も、真の神、イエス・キリストを信じ続ける事です。信仰は勝利です。
嵐のような試練を静め、主の目的地、御国まで導いて下さるのです。

今週のみことば
「主に従う人はとこしえに揺らぐことがない。」
 詩編112編6節


 ページのトップへ
  
2024年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ