 |
阪神チャペルセンター
礼拝メッセージ |
 |
7月第二週の主の日の礼拝を、心から感謝します。
尊い臨在の中、さらに主の御顔を慕い求めて礼拝をささげましょう。
主イエスは公の生涯に入られると、町々村々を巡回されて、神の国を宣べ伝え、また、多くの病人を癒されました。
ある時、主イエスのところに、重い皮膚病を患っている人がやって来て、ひざまづいて「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」(マルコ1:40)と言いました。
主イエスは深く憐れんで、その人に手を差し伸べて、その人に触れてくださり、「よろしい、清くなれ」と言って癒してくださいました。
たちどころに、皮膚病は癒され、清くされました。
主イエスはこの人に、祭司に体を見せて、モーセの規定の犠牲をささげて、癒されたことを人々に証明するようにと伝えました。
重い皮膚病が治ったかどうかは、祭司が判定したからです。
この病気の人は家に住むことは許されずに、遠くの人里離れた所で生活しなければなりませんでした。生きていても、死んだ者のようになっていたのです。しかし、癒されたと判定されたら、規定の犠牲をささげて、元の生活に戻れるのです。
主イエスはこの人に、病気が癒されたことは、誰にも言わない様にと、厳命されました。
このことが知れわたると、多くの人が押し寄せて来て、本来の伝道活動がしにくくなると思われたのでしょう。
ところが、癒された人は黙っていませんでした。人々に大いに言い広めてしまいました。主イエスは公然と町に入れなくなってしまい、人のいない所におられたのですが、それでも人々があちらこちらから集まってきました。
この出来事の数日後、主イエスはこの頃の活動拠点であった、カファルナウムに来られました。
すると、主イエスが家におられることを知った人々が大勢集まったので、家の中はいっぱいで、戸口のあたりまで隙間がないほどでした。
多分、この家はペトロの家ではなかったかといわれています。
主イエスは人々に御言葉を語っておられました。
イエスがおられることを聞いた四人の男の人が、その家に中風を病んでいる人を床に乗せて運んで来ました。
中風とは、体が麻痺してしまう病気で、寝たままの日々はつらい事であったでしょう。
家まで運んできて、主イエスの許まで運び入れたいのですが、立錐の余地もありません。入り口から入れることはできませんでした。
しかし、あきらめることはできませんでした。
当時の庶民の家は、屋根は平らで簡単に木の枝や粘土で葺いてあるだけでした。たいてい外階段もありましたので、4人の人は、病人を床に寝かせたまま、屋根に登り、主イエスのおられるあたりの屋根をはいで、病人を床のまま釣り下ろしました。
当然、土ほこりも上がったでしょうし、主イエスは御言葉を語っておられるのに、中断させてしまうような迷惑な行為ともとれました。
しかし、主イエスは叱りませんでした。4人の男の人の信仰を見てくださいました。
病気で苦しんでいる人を癒していただきたい、主イエスならきっと癒して下さると信じて、主の許に来たその信仰を御覧になりました。
主は、病人に、「子よ」と呼びかけてくださいました。
「子よ」という呼びかけは誰にでもすることはありません。当時の信仰の指導者たちは、弟子になりたい者を受け入れた時、「子よ」と呼びました。
ですから、主イエスは中風の人を受け入れてくださったのです。
「子よ、あなたの罪は赦される」(マルコ2:5)と宣言されました。
病気を癒していただきたいと思ってきた人でしたが、主はまず罪の赦しの宣言をなさいました。
人は誰でも心に罪を持っています。
人を裁くこと、偽りを言う事、心に憎しみを抱くこと、高慢な心など、否定できない罪があるのです。
何より、真の神を受け入れようとしない頑なな心を持っています。
罪を持っていると、さまざまな問題の原因になってしまいます。
人間関係がうまくいかないことがあって、悩む人が多いのですが、その原因は何なのでしょうか。互いが互いを見下して、自分が正しいと主張するからではないでしょうか。自己主張という罪が原因です。
聖書は、謙遜を教えています。
「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:3―8)と教えています。
この御言葉をしっかりと心に受け入れて、従うなら、こじれてしまった関係もやがて最良の形で解決するのです。
主イエスは、罪を持ち、頑なな心の人間を救うためにこの世に来られて、十字架に架り、命を捨てて下さいました。
主イエスの十字架は、すべての人を救うためでした。
主イエスが中風の人に罪の赦しの宣言をした時、そこにいた数人の律法学者たちが心の中で、主を非難していました。
主イエスは神を冒涜している。神お一人のほかに、誰が罪を赦す権威を持っているだろうか、この人はなぜこのようなことを口にするのかと裁いたのです。
それを見抜かれた主イエスは、「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。そして、中風の人に言われた。『わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい』。
(マルコ2:8―11)
このように言われると、たちまち男の人は癒されて、主が言われたように、起き上がり、自分が運ばれて来た床を担いで、皆の前を出て行きました。
主の御業を目の当たりにした人々は、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美しました。
この日、人々は主イエスが神の子であり、神の権威に満ち溢れておられる方であることを知って、喜び賛美しました。
主イエスは救い主です。この方がすべての罪人を救い、永遠の命を与えるために、十字架で贖いを成し遂げてくださいました。
中風の人は、主イエスの許に来たくても来ることができませんでした。
4人の人たちが、主の許に運び、強引な仕方でしたが主の前に出ることができたのです。
信仰による、執り成しと考えることができます。
主イエスの許で、救われなくてはならない人々がいるのです。
私たちは、魂の救いを祈ります。執り成します。
主は、心を光と希望に満たし、癒し、救いを与えてくださいます。
主イエスの罪の赦しと救いのすばらしさを賛美しましょう。
今週のみことば
「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される。」
マタイによる福音書9章2節
|
|