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阪神チャペルセンター
礼拝メッセージ |
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「罪を赦される方」
ヨハネによる福音書8章7-11節 |
素晴らしい天の父を心よりほめたたえます。きょうもまことの神を仰ぎ、礼拝をささげましょう。
一週間の間、尊い御守りの中を歩むことができたことを感謝します。
天の父は、私たち一人一人に生ける御言葉を下さいます。
御言葉を歓迎しましょう。
主イエスは、昼間は神殿で御言葉を語り、夜はオリーブ畑と呼ばれる所で過ごされました。
人々は主イエスの教えを聞こうとして、朝早くから集まってきました
主イエスは座られて人々に教えられていますが、この姿勢は、ラビと呼ばれる教師が正式に人々を教える時の姿勢でした。
熱心に耳を傾ける人々たち、教えられる主イエス、そのような厳粛な場に、騒がしくやってきた人たちがいました。律法学者やファリサイ派の人々でした。それは、礼拝をささげて神の言葉を聞いている臨在の場に、土足で踏み込んで来るようなことです。まことに非常識で不敬虔なことでした。
彼らは、不倫の現場で捕まった女性を連れて来て、真ん中に立たせました。律法は道徳的な罪に厳しく、このような罪は、石打ちの刑と定められていました。それに対して主はどのように考えておられるのかと質問したのです。
ファリサイ派たちが主イエスの所にこの婦人を連れて来たのは、主イエスの返答次第では主イエスを告発しようと、試したのです。
主イエスが、「この女の人に石を投げてはいけない」と言われたら、主イエスはモーセの律法に違反していると告発できます。主イエスが「この女の人に石を投げつけなさい」と言われたら、ローマの法律に反するとして逮捕できると考えました。ローマの属州であったユダヤには、人を死刑にする権限がなかったからです。
主イエスはどうされたでしょうか。
地面にかがみこまれて指で何か書き始められました。主イエスの「彼らの問いには答えたくない、彼らにはかかわりたくないとの意思の表われでした。
それでも、ファリサイ派たちがしつこく問い続けるので、主イエスは身を起こされて、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われました。
人々の目は罪を犯した女の人に向けられていました。しかし、この主イエスのお言葉で、それぞれが自分自身に目を向けたのです。
たしかにこの女の人は罪を犯した、しかし、あなたがたはどうですか、罪を犯したことはありませんかと、問いかけられたのです。
主はそれからまた屈みこまれて、地面に何か書き始められました。
周囲の人々に変化が起こりました。
年長者から始まって、一人一人その場を去って行ったのです。
そして、主イエスと女の人だけがそこに残りました。
主は、「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」とお聞きになりました。
女の人は、「主よ、だれも」とお答えしました。
周囲の人々が主イエスのお言葉に自分の罪を自覚して、その場を去ってしまい、主イエスは屈みこまれて地面に何かを書いておられるなら、女の人をだれも見ていません。逃げ去ろうと思えば逃げることができたのですが、それはしませんでした。
そこにこの人の信仰をみることができるのです。
「主よ、だれも」とお答えしたのは、主イエス様、だれも私を罪に定めることはしませんでした」ということです。
この出来事から、私たちは希望を持つことができます。
だれでも、罪を持っています。
パウロは、「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。
彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。」
(ローマ3:10−18)
と、記しました」。罪ある人の真の姿です。真の神を知ろうともせず、口は心から溢れ出る悪を排出して、その結果は流血や破壊、悲惨だと記されています。
これは誰しもが持っている罪で、例外はないのです。
女の人は、自分が罪を犯した罪人であることがわかっていました。
ですから裁かれるのが恐ろしかったのです。石を投げつけられて死刑になるなど、考える事が出来ない程の恐怖です。
主イエスは、その女の人に、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(ヨハネ8:11)と、罪の赦しをお与えになりました。
罪人の罪を赦す権威は主イエスにあります。ご自身は罪を犯すことはありませんでしたが、罪を赦す権威をお持ちの神であられたのです
そして、罪の赦しを宣言すると同時に、「もう罪を犯してはならない」と言われました。
主イエスは罪を容認されたのではありません。その女の人の罪をも担いわれました。罪を赦すために、十字架に架られ命を捨てて罪人の罪を贖われたのです。
「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって、神の義を得ることができたのです。」(Uコリント5:21)
人の罪は、人はだれも消し去ることはできません。心の罪を清めることはできません。
不道徳な罪は犯すことがなくても、人を心の中で裁き、否定する、人を憎み、蔑むなど、これらは神の前に大きな罪です。
罪のあるままでは決して神の国に入ることはできません。
心を開き、主イエスを受け入れ、主イエスの十字架こそ罪の赦しの為であったことを認めるなら、その人は清められ、新しい命と力に満たされ、主イエスと共に歩み続ける事が出来るのです。
心が清められれば、生活も変わります。
主イエスが、「わたしもあなたを罪に定めない」と言われたのに、罪の生活に戻る事はあり得ません。それは、主イエスをもう一度十字架につけることになるのです。
赦された者は、罪から全く離れて、聖霊に満たされ、主イエスの御心に沿った人生を始める事が出来ます。
福音書に、マグダラのマリアという女性が登場します。罪深い女性で悪霊に支配されていた人でした。主イエスに罪を赦され、変えられてからは、もう罪の生活に戻ることはありませんでした。主イエスの十字架にまで、従う生活へと変えられました。
福音書には、主イエスの十字架と復活を体験した女性だと、紹介されています。
どのように罪深い者であっても、主イエスに赦されない者はいません。
大切なのは、主イエスを救い主として信じる事。救いを告白する事。
罪の中に戻ることがないように、聖霊に導き続けられることです。
主イエスは私たちにも、あなたの為に十字架に架った。あなたの罪は赦されている。今後は罪を犯さない様にと、語り続け導き続けてくださいます。
主イエスにどこまでも従い続けて行きましょう。
今週のみことば
「御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」
ヨハネの手紙T1章7節
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