阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2024年9月8日
第2聖日礼拝
「子供のように」
ルカによる福音書18章15-17節

先週の聖日は、台風の影響でYouTubeでの礼拝になりました。教会には集まれませんでしたが、それぞれの所で心を合わせて、天の父に向かい、礼拝できたことを感謝します。
しかし、教会で礼拝がささげられることは大きな恵みであることも、改めて覚えることができました。感謝です。
さて、ある時、主イエスに触れていただくために子供たちが連れて来られました。両親や祖父母など家族に連れて来られたのです。
マタイによる福音書や、マルコによる福音書にも平行記事が記されていますが、ルカによる福音書だけは、「人々は乳飲み子までも連れて来た」と記しています。
主イエスに手を置いて祈っていただき、祝福していただくためにやってきたのです。
ところが、弟子たちはこの様子を見て、叱りました。
主イエスはお忙しいのに、このようなことをさせてはならないと、勝手に思ったのです。
当時は、女性と子供は数に入りませんでした。ですから、五つのパンと二匹の魚で人々が満腹するまで食べることができたのは、男の人だけで5千人と記録されているのです。
幼子、乳飲み子は小さな存在とされていたのです。
しかし、主イエスはこの幼子たちもみ許近くにお呼びになりました。
「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」(ルカ18:16)と言われたのです。
このお言葉は、「わたしのところに来ることを子供たちに許しなさい」というお言葉を翻訳しています。
主イエスは続けて、「神の国はこのような者たちのものである」(ルカ18:16)と言われました。
このお言葉を弟子たちも聞いていたのですが、その教えに驚いたに違いありません。
先にも申しましたが、幼子は取るに足らない存在です。神の国からは遠いのではないかと思っても不思議ではありません。
また、弟子たちは折々に、自分たちの中で誰が一番偉いかなどと議論するようなところがありました。
ルカによる福音書9章46節以下に、弟子たちがこのような議論をしていたという箇所があります。
人には、他の人と自分を比べてしまう思いがあります。
自分はあの人に比べると、能力がある。あの人より地位がある。あの人よりも良い物を持っている等、色々なことで比較してしまうところがあるのではないでしょうか。
弟子たちも自分が一番偉くて用いられていると、主イエスからも人からも認められたかったのです。
主イエスは彼らの心を見抜かれて、一人の子供の手を取られて、御自分のそばに立たせました。
「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉いのである。」(ルカ9:48)と言われました。
弟子たちはこのように教えられていたにもかかわらず、乳飲み子たちがみ許にくることを叱ってしまいました。
主イエスの教えられたことを忘れていたのでしょう。
弟子たちには大変人間的な所があったようですが、それを非難することはできません。
私たちも、礼拝をささげ、個人的に聖書も読み、祈り、デボーションで神に近づいているのに、その教えをしっかりと覚えて、守っているでしょうか。
信仰は生活です。生活にいつもキリストの香りがあるでしょうか。
時には弟子のような失敗があるかもしれません。
「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(ルカ18:16,17)。
子供のように神の国を受け入れる人とは、どのような人なのでしょうか。
ここで主イエスが言われているのは、謙遜な人であるようにということです。
神の国とは、神のご支配のある所です。
主イエス・キリストの十字架により、罪赦された者は、神の子であり、神のご支配の中に生かされています。
神の国にあることを感謝し、乳飲み子のようにただ信じて受け入れる者こそ、謙遜な者といえるのです。
人には罪との戦いがあります。確かに十字架によってすべてが赦されています。
しかし、日々の生活の中で、心の中の罪との戦いが常にあります。
罪とは犯罪ではありません。
人の心にある、神が喜べないものが罪なのです。
主イエスの弟子たちも、主に近く仕えて、その教えを直接聞いていたにもかかわらず、悟れないようなところがありました。
旧約聖書のソロモンは、ダビデの息子でイスラエル第三代目の王でした。ソロモンの時代に王国は最も繁栄しました。
神がソロモンに「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」(列王上3:5)と言われました。ソロモンは、自分はまだ若く、王としてどのようにしたらよいのかわかりません。民を正しく裁き、善と悪を判断する事が出来るように、聞き分ける心を与えてくださいとお願いしました。
神はこの答えをお喜びになり、自分の為に長寿を求めず、敵の命を求める事もなく、知恵を求めた。あなたが求めなかった富も栄光も与え、私に従い続けるなら長寿も与えると約束されました。
このようなソロモンでしたが、次第にその心は高慢になり、神から離れて勝手な事をするようになってしまいました。
考えられない事ですが、外国から娶った妻たちの偶像礼拝を認め、自らも偶像に心を引かれるようになりました。
「ソロモンは主の目に悪と思われることを行い、父ダビデのようには主に従い通さなかった」(列王上11:6)と記されています。
いつも自分の心を見張り、聖霊によって満たされ、十字架の血を仰ぎ続けないと、人の心は高慢になるのです。
十字架の主イエスを仰ぎましょう。幼子のようになれと言われたお言葉を忘れないで、心に刻み込みましょう。
主イエスの謙遜を覚えましょう。
「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:3―8)。
キリストの謙遜さこそ、幼子の謙遜さなのです。
日々悔い改め、恵みの中を歩み続け、贖われた者、神の国の民であることを感謝しつつ、信仰によって歩み続けましょう。

今週のみことば
「はっきり言っておく。
 子供のように神の国を受け入れる人でなければ、
 決してそこに入ることはできない。」
 ルカによる福音書18章17節


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