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阪神チャペルセンター
礼拝メッセージ |
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過ぎた一週間も守られて、きょうも礼拝をささげられることを感謝します。恵みを思い返しながら心から賛美をささげましょう。
パウロは、コリントの教会の中に起こっていた様々な問題に心を痛め、戒めと悔い改めを促す手紙を記しました。
コリントはパウロが伝道をして建て上げられた教会で、ギリシャのアテネの近くにあります。
当時は偶像礼拝がさかんで、コリントにはギリシャ神話の神の神殿がたくさんありました。特に有名なのはアフロディテという女神の壮大な神殿です。アフロディテは英語のビーナスという名前の方が有名で、愛の女神と言われていました。
パウロの生涯はキリストの福音を伝える生涯でした。困難や試練の連続でしたが、聖霊に導かれて福音を伝え続けました。
パウロは生まれながらにローマの市民権を持ち、当時の最高の教育を受けた人でしたが、持病をもち、苦しみを覚えていました。
パウロは、「一つのとげ」が与えられていると告白しています。
大きなとげは痛いですが、小さなとげもちくちくして大変気になるものです。パウロに与えられていたのは決して小さいものではなかったようです。
聖書にははっきりと記されていないのですが、マラリヤではないかといわれています。また、目が見えにくくなっていたともいわれています。
パウロはこのとげは、自分自身が高慢にならないように与えられていることを知っていました。
それは、サタンから送られている使いだと表現しています。
パウロはこれが取り除かれるようにと三度祈りました。このとげが取り去られるなら、もっともっと福音のために働けると思ったのです。
神の答えはどうだったでしょうか。
神は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」(Uコリント12:9)とお答えになりました。
パウロは、とげを取り去ってほしいと願いました。私たちも様々なとげの為に祈ります。
神様の解決方法には二つの方法があることを知る事が出来ます。
一つは、とげが癒される事、取り去られる方法です。
旧約聖書のヒゼキヤ王は死の床につきました。ヒゼキヤは北王国ユダの王で、神の前に正しく歩む王でした。
「彼は主を固く信頼し、主に背いて離れ去ることなく、主がモーセに授けられた戒めを守った。主は彼と共におられ、彼が何を企てても成功した」(U列王18:6,7)と記録されています。
ある時、病のヒゼキヤのもとに預言者イザヤが来て、ヒゼキヤに死の宣告をしました。ヒゼキヤは直ちに神に、自分が今まで従順に従って来た事を思い起こしてくださいと祈りました。
イザヤがまだ王宮の庭から出ないうちに、神はヒゼキヤを癒し、寿命を15年延ばすと宣言されました。祈りはただちに届きました。
ヒゼキヤの悩み、病は癒されたのです。
そして、もう一つの方法は、とげからの解放ではなく、とげを担えるように強くされる方法です。
神様は、パウロに「わたしの恵みはあなたに十分である」と語られたように、私たちにも語っておられます。
「わたしはいつでもあなたを愛し、恵みを十分に注いでいる。忘れているようなことはないでしょうね」と言われるのです。
「わたしはあなたといつも共にいる。わたしの手はいつもあなたに延ばされている。わたしの愛と恵みはあなたに十分なのだ」と語っておられるのです。
主イエスが共に歩んでくださっている、それだけで十分なのです。
神は、わたしたちが耐えられないようなとげも試練もお与えになることはありません。
「あなたたちは生まれた時から負われ 胎を出た時から担われてきた。
同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ46:3,4)
この世に生まれた瞬間から神はわたしたちを背負い、白髪になってもかわらず背負って下さっているのです。
なぜなら、わたしたちは神に創造され、愛されている者だからです。
フットプリンツ(足跡)という賛美があります。
主と私で歩いてきたこの道
あしあとは二人分
でもいつの間にか一人分だけ
消えてなくなってしまった。
主よあなたはどこへ行ってしまわれたのですか
私はここにいる
あなたをおぶって歩いてきたのだ
あなたは何も恐れなくてよい
私が共にいるから
いつも共に歩んでくださった主イエスの足跡が無くなっていて、主が自分を置いて去って行かれたのではないかと思ったとき、主は語って下しました。
あなたがとげで苦しむとき、試練で泣くとき、苦しむとき、私はあなたを背負って歩み通した。その一人のあしあとは、あなたのではなく、私のあしあとだと言われるのです。
パウロは、「だからキリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(Uコリント12:9)と、
告白したのです」。
もし、自分には能力があり、力もあり、知識や知恵もあると誇っていたら、そのような人を神は用いようとはされないでしょう。
自分の弱さを本当に知っていて、全てを主に委ね、信頼する者を主は用いてくださるのです。
主イエスが自分自身の内におられ、その力でおおわれていることを信じる者は、「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを 学ぶことができました。」(詩篇119:71口語訳)」と告白することができるのです。
私たちの天の父は、意味のないことはなさいません。
今、試練の中にあり、あるいは体や心の弱さを覚えるようなことがあっても、すべてを御存じで、私たちを恵みで覆い尽くして下さいます。
その痛みや苦しみを通してでなければ知る事の出来ない恵みがあり、
また、主イエスを深く知る事ができるのです。
わたしたちのこれまでの歩みは主イエスによって支えられ、守られてきました。今はどうでしょうか。今現在も守られています。将来はどうなのでしょうか。この世には確実なものはありません。しかし、神の言葉は真実で確実です。将来も主イエスに委ねて歩むのです。
天の父は最善をなしてくださいます。
もし、今弱さを覚えて苦しむなら、それは確信と喜びに変えられます。
「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰りの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(Uコリント12:10)
十分な恵みに満たして下さる主を崇めましょう。
私たちの弱さを用いてくださる神を崇めましょう。
今週のみことば
「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、
むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」
コリントの信徒への手紙U12章9節
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