阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2024年10月6日
第1聖日礼拝
「神の愛を知る」
ヨハネの手紙T 4章7-12節

 10月初めの聖日を迎えました。きょうも主を見上げ、霊と真をもって礼拝をささげましょう。
主イエスは、弟子たちとの最後の食事の折に、大切なことをお教えになりました。
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:34−35)。
ヨハネによる福音書を記したのは、ヨハネの手紙を書いたヨハネです。
若いころ、ガリラヤ湖畔で主イエスの召しにあずかり、網を捨てて主イエスに従いました。
兄ヤコブと共に弟子とされたのですが、若いころは気性が激しく、「雷の子」と呼ばれるほどでした。
ヨハネは晩年、エフェソの教会の長老でしたが、年老いて講壇に寄りかかりながらも、「互いに愛し合いなさい」と説教したと伝えられています。
ヨハネは、主イエスとの最後の食事に同席していましたから、その席での主の教えを聞いていました。
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。」と教えられた、主のお言葉を聞いていました。
ヨハネはその主イエスのお言葉を、もう一度思い返しながら手紙を書き記したと考える事が出来ます。
そこには、主イエスを信じる者に、大切な教えを書き記しました。
主イエスが私たちを愛されたように、互いに愛し合うこと、それが主を信じる者の信仰の姿勢だと教えています。
「互いに愛し合う」と教えられている愛とは、どのような愛なのでしょうか。
人は心に愛を持っています。しかし、その愛は限りのある愛で、自分が愛することのできる存在への愛ではないでしょうか。
あるいは、自分にとって価値があると思えるものを愛することはできるでしょう。
夫婦の間での愛、家族への愛、友人たちへの愛、それぞれ大切な尊いものです。
しかし、私たちは神の愛を知っています。神の愛はアガペーというギリシャ語が使われています。
それは、価値のない者への無条件の愛なのです。
罪ある者たちを救われる、十字架の愛です。
エリコの町の取税人の頭、ザアカイは誰からも嫌われていました。誰も相手にしてくれませんでした。ローマ帝国の手先となって、同胞たちから税を取り立て、多く取り立てては私腹を肥やしていると、思われていたからです。
取税人は罪人として扱われていて、社会からははじき出されていました。
いちじく桑の木に登って主イエスを見ようとしていたザアカイに、主イエスはザアカイの名を呼んで招き、ザアカイの家に泊まってくださいました。主イエスから近づいて下さったのです。
多くの人たちは、それを見てつぶやきました。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」(ルカ19:7)。
わざわざザアカイの家に泊まることはないだろうにと、言っているのです。ところがザアカイは悔い改めたのです。
ザアカイなりの信仰を告白しました。
主イエスは、「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを探して救うために来たのである。」(ルカ19:9)と言われました。
主イエスがザアカイを見出し、救って下さった、これが愛の表われです。
ルカによる福音書15章には、有名な三つのたとえ話が記されています。
失われた羊、無くした銀貨、放蕩息子のたとえです。
いずれも、真の神から離れて彷徨う存在が、父なる神の許に帰ることができたというたとえです。失われた者が見いだされて真の神に帰る事が出来たのです。
このたとえは、「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た」とあるように、罪あることを知っていた人々に語られたのです。
自分たちを義人だと思っているファリサイ派は、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いました。
主イエスの愛は、アガペーの愛です。
私たちにはもともとそのような愛はありませんでした。しかし、主イエスの十字架によって罪が赦され、神の子とされた時に、その愛に満たされました。
この愛の源はどこにあるのでしょうか。まず、神が私たちを愛してくださったという恵みこそが、愛の源です。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Tヨハネ4:9−10)。
尊い神の独り子が世に遣わされて、十字架に架られたのは、誰のためだったのでしょうか。
それは、誰の為でもない、私のためだと知らなければなりません。
罪を罪とも知らず、神の許から迷い出ていることさえ知らず、滅びの道を進んでいた「私」を救うために、主イエスはこの世に来られて十字架の贖いを成し遂げてくださった。この事実をしっかりと受け止めて、悔い改められることが、神の愛、神の恵みに応答することです。
ザアカイはしっかりと神の愛に応答したのです。
御言葉は、「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」(Tヨハネ4:11)と続いています。
神に愛されていることを知っている者は、愛する者になるのです。
愛のある所に神はおられます。「神は愛」だからです。
2000年以上、キリストの福音は全世界に伝えられてきました。
この福音は私たちにも届いたのです。
その熱意の源泉はどこにあるのでしょうか。神の愛を知り、その御心を知り、なんとかして一人でも救われてほしいという、溢れる思い、アガペーの愛によるのです。
神の愛を知った人は、祈る人に変えられます。自分の必要の為に祈ることも大切です。必要は満たされます。
しかし、まず神の御心が成ります様にと祈る。心が神の愛に満たされるようにと祈る。聖霊に満たされるようにと祈る。
神の御心は、全ての人がその愛を知り、キリストの十字架によって救われ、永遠の命に生きることです。
私たちが、先に主イエスを信じて救われたのは、神の愛を表すためであることを覚えましょう。
御霊は切なるうめきをもって、私たちをとりなしてくださいます。
神の愛を信じ、力をいただいて、日々神の子にふさわしく、言葉と生活によって、神の愛を源とする、キリストの福音のために用いられて参りましょう。

今週のみことば
なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから
 聞いている教えだからです。
 ヨハネの手紙T 3章11節


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