阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2024年10月27日
第4聖日礼拝
「キリスト・イエスによる贖いによって」
ローマの信徒への手紙3章21-26節

 10月最終の聖日を迎えました。日々天の父の恵みの中を歩むことが出来て、感謝します。
まことの神に向かい心からの賛美と礼拝をささげましょう。
ローマの信徒への手紙はパウロが記した手紙です。テーマは「信仰によって義とされる」というテーマです。
主イエスを信じて救われる以前には、気が付くことがなかったかもしれませんが、人は皆心に罪を持っています。
まことの神を信じようともせずに、平気でうそをつき、人を裁き、自分勝手に生きていくことが、実は罪なのです。
最初の人アダムとエバが神に従わずに罪を犯したときから、人は罪を持つ者になりました。
多くの人は、犯罪のことを罪と思っているので、自分は犯罪者ではないから罪は犯していないと思います。
聖書な何と教えているでしょうか。「既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。」(ローマ3:9)とあります。
詩編14編3節には、「だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない」とあります。
パウロはこの御言葉を引用しています。
一人残らず罪人だと言っているのです。
もし、罪を犯し続けるなら、その行きつく所は滅びです。
天の父は、罪ある者を愛し、救いの道を開いて下さいました。
その独り子、イエス・キリストを世に遣わされて、十字架という救いの橋を架けてくださいました。
主イエスは世の罪をすべて背負われて、十字架に架かり、贖いを成し遂げられたのです。
「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ローマ3:23)と、約束されました。
ローマの信徒への手紙には、「義」という言葉がたくさん使われています。
「信仰による義認」がテーマですから、当然の事なのです。「義」とは正しさという意味です。
主イエスは、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6:33)と教えておられます。
神の国とは、天の父がおられて、ご支配されているところです。天の父は清いお方ですから、そのおられる所も清いところです。御国は、神の清さと神の正しさの国です。
ですから、罪ある者は入る事が出来ないのは当然なのです。
罪は人間の力や努力では解決することはできません。この世の何をもっても赦しはありません。
パウロとシラスがマケドニアに導かれ、フィリピで伝道した時、占いの霊に取りつかれた女の人を癒したことから、この人によって儲けていた人たちから訴えられ、鞭打たれて投獄されたことがありました。
何度も鞭打たれて牢獄に厳重につながれていました。
パウロたちは真夜中ごろ賛美をしていました。囚人たちは聞いていました。
突然大きな地震が起こって牢屋の戸がすべて開いてしまいました。牢屋番は驚いて、囚人たちが皆逃げてしまったと思って剣を抜いて自害しようとしました。囚人を逃がすと、自分が死刑になるからです。
パウロは、だれも逃げ出していないと、大声を上げて止めました。
牢屋番は明かりを持って来させて、牢の中に飛び込んできました。
パウロとシラスを牢の外に出し、震えながらひれ伏して、「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」(使徒16:30)と聞きました。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒16:31)。福音を聞いた牢屋番とその家族は、その夜の内に洗礼を受けて、神を信じる者となったことを喜び合いました。
彼らは主イエスを信じて義とされました。天国の民とされたのです。
救いの喜びに満たされました。
人は、救われるためには、なにか代償がいるのではないかと思います。
「何をすればよいのでしょうか」と質問するのです。
偽の宗教家は、「これらの品物を買いなさい」と言って、高額な商品を求めさせます。そこに救いはありません。
あるいは、肉体を苦しめるような修業が必要と説くこともあるでしょう。
成し遂げた時の達成感はあるでしょう。しかし、そこにもまことの救いはありません。
聖書は、「キリストの贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」と教えています。
キリストの十字架の贖い、それは神の恵みの業です。しかも無償の愛によるのです。
救われ、義とされるためには何もいりません。ただ、キリストを心に受け入れ、生涯この方を信じて従うことを決意するだけなのです。
そうするならば、ただちに新しくキリストの命に生まれ、命と平安、救いの喜びに生きる者になるのです。
義とされた者は、愛されている者として、なんとかして神の愛を表そうとします。
犠牲が伴うかもしれません。いままで大事にしていたものがそうではないことに気が付くことがあります。
主イエスがエルサレムに行き、贖いの為に十字架につかれる6日前に、ベタニヤ村にやって来られました。
以前、ラザロを甦らされたところです。
主イエスはマルタ、マリア、ラザロの三兄妹を大変愛されて、しばしばベタニヤへ来られました。
イエスの為に夕食が整えられ、マルタは給仕をしていました。
マリアは純粋で高価なナルドの香油を1リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪の毛でその足をぬぐいました。当時食事は横になってするので、そのようなことができたのでしょう。家の中は香油の香りでいっぱいになりました。
イスカリオテのユダは、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人に施さなかったのかと批判しました。実はユダは金入れを預かっていながら中身をごまかしていました。
主イエスは、「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りのために、それを取って置いたのだから」(ヨハネ12:7)と言われたのです。
マリアはまだこの時、主イエスが十字架で死なれることを知りませんでした。しかし、主イエスに対する愛を、香油を注ぐことで表したかったのです。それが知らずに十字架の備えになったのです。
主イエスを信じ、愛する者は、自分のためではなく、主イエスの栄光のために生きることが喜びになります。
ルターは、修道士でしたが、ローマ教会が免罪符を買うことで天国に行けると宣伝することに疑問を持ちました。
ローマ書を読み、「義人は信仰によって生きる」という御言葉に目が開かれました。救いは信仰により、恵みによる以外にはないと確信して、広く訴えたのです。
宗教改革となって、プロテスタントが生み出されました。
あらためて救われて、神の国に招き入れられ、永遠の命に生かされていることを感謝し、神の栄光の為に用いられる人生を送りましょう。

今週のみことば
「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、
 神の恵みにより無償で義とされるのです。」
 ローマの信徒への手紙3章24節


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