阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2024年11月10日
第2聖日礼拝
「最も偉い者」
ルカによる福音書9章46-48節

 今朝も教会に集い、心を合わせて礼拝をささげられることを感謝します。
日々主イエスが共に歩み、支え、導いてくださる事を感謝します。
きょうも、生ける神の言葉を待ち望みましょう。
主イエスの弟子として召された者たちは、人間的な性質を持っていました。特別な人ではなく、普通の人たちでした。
普通の人たちでしたが、主イエスは彼らが後に宣教の為に、最後まで用いられることを知っておられて、日々教えと訓練をなさいました。
 弟子たちの関心事は、「自分たちの中で誰がいちばん偉いか」ということでした。
ルカ9章には、主イエスが変貌の山で栄光の姿に変わり、モーセとエリヤと語り合ったという記事があります。
主イエスは、彼らと十字架での贖いについて話し合われたのです。
主イエスに同行を許されたのは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブの3人でした。
3人は、当時はそのことを誰にも話しませんでした
しかし、内心、自分たちは素晴らしいことを目撃する事が出来たのだから、一番偉いのではないかと思ったのでしょう。
主イエスはルカ9章の中で、2度ご自分が苦難を受け、十字架で死なれることを予告なさいました。
主イエスがメシアであることを告白したペトロを始め、弟子たちに「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(ルカ9:23)と教えられました。
主イエスは大切なことを弟子たちに教えておられるのです。
主イエスの十字架の予告が2度目に語られた時も、弟子たちは理解できませんでした。
弟子たちは怖くて、主イエスにそのことをお尋ねすることもできませんでした。
マルコによる福音書には、弟子たちは主イエスとカファルナウムへ来る途中、誰が一番偉いかと議論していたとあります。
主イエスの心の中心は、全世界の贖いのために十字架に架かるという事でしたが、弟子たちは、自分たちの中で誰が一番偉いかという事で、心がいっぱいでした。
誰が一番偉いかというのは、「だれが一番優れているか、だれが一番価値があるのか」ということです。お互いの間で優劣をつけたがっていたのです。
これは人ならだれの心にもある事なのです。
人には、人と比べて評価するようなところがあります。
自分はあの人より優れている。能力もあるとか、あの人に比べると力がないとか、人と比べるようなところがあるのです。
優劣や価値を比べるのが世の中の生き方なのかもしれません。
弟子たちは、選ばれて主に従いながらも、お互いに誰が一番かなどという思いを捨て去れませんでした。
主イエスというお方は、人の心を見抜かれる方です。私たちの全てを御覧になっています。
「主よ、あなたはわたしを究め わたしを知っておられる。 座るのも立つのも知り 遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに 主よ、あなたはすべてを知っておられる。
前からも後ろからもわたしを囲み 御手をわたしの上に置いてくださる。」(詩篇139:1−6)。
私たちはすべてを主に知られているのです。何を考え、何を大切にしているのか、ことごとくご存じであることを覚えましょう。
主イエスは、弟子たちの心を見抜かれて、一人の子供の手をとって、御自分のそばに立たせました。
これは、子供のように純真無垢で罪のない者のようになれと、いわれているのではありません。
なぜなら、子供にも「原罪」という問題はあるからです。
主イエスこそ救い主であるという信仰を持つために、大人たちは祈ることが大切です。
今では考えられませんが、主イエスの時代、女の人と子供は軽んじられていました。
小さな存在、価値のない存在とされていました。
数に入らないような存在とされていました。
子供の手を取ってそばに引き寄せられた主イエスを見て、弟子たちはどう思ったでしょうか。
主イエスの十字架の受難はまだ、理解できていなくても、主イエスは大切な先生です。自分たちにとって得難い存在です。一方、子供はやはり小さい、価値のない存在としかみることができませんでした。
主イエスにしか目がいかなかったのです。
主イエスは、「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」(ルカ9:48)」お教えになりました。
それは、小さな存在、軽んじられている存在、無価値と思われている存在を、主イエスのように受け入れるということです。
主イエスだけではなく、軽んじられている存在を私のように受け入れなさいと言われたのです。
そのために、主イエスは子供を引き寄せて、御自分とともに立たせたのです。
主イエスは、「わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」と言われました。
小さな存在を主イエスのように受け入れるということは、主イエスを受け入れる事であり、主イエスをお遣わしになった父なる神を受け入れる事なのです。
弟子たちは、自分たちの中でだれが一番偉いかと議論しました。
主イエスは、「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」と教えておられます。
主イエスはあなた方の中で一番小さな者、すなわち謙虚な者が一番偉いと言われました。
主イエスを信じた者は、おのずと謙虚さを持つはずです。人を自分より優れた者として尊ぶ心が与えられます。
しかし、気を付けて自分の心を見張らないと、知らず知らずのうちに、高慢さが芽生えてしまいます。
十字架の血汐により、罪を清められてもそのままにしてはいけないのです。
清めを求め続けることです。
毎日祈り、悔い改めるべきことを悔い改めていく。それが信仰生活にとって大切なことです。
悔いた清い心に聖霊はお住まい下さいます。
御言葉には命があります。御言葉は日ごとの糧です。
御言葉を慕い求める事が大切なのです。
人と比べての優劣ではなく、やがて主イエスの前に立つとき、「忠実な僕よ、よくやった。あなたは小さい者、謙虚な者であった」と、お言葉をいただけるように、日々主イエスに従い、主に喜ばれる者として信仰の生活を送り続けましょう。


今週のみことば
「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、
最も偉い者である。」
 ルカによる福音書9章48節


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