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阪神チャペルセンター
礼拝メッセージ |
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「感謝と賛美、救い」
ルカによる福音書17章11-19節 |
11月第3週の主の日を迎えました。共に心を合わせて礼拝しましょう。主の前に集い、礼拝をささげるのは、信仰の告白であり、信仰生活の中心です。また、恵みと特権であることも覚えましょう。
主イエスは町々村々を巡り歩かれ、神の国を伝えて、救いと癒しの業を行って下さいました。
ガリラヤのカファルナウムを伝道の拠点とされていましたが、そこに主の家があったのではありません。弟子のペトロの家に宿られて宣教をされていたのです。
この世の安定とは隔たった生活をなさったのです。
主イエスと弟子たちがガリラヤからエルサレムへ向かう途中、サマリヤとガリラヤの間を通られました。
ある村へ入ると、重い皮膚病を患っている10人の人が出迎えました。
遠くに立って、「イエス様、先生、どうかわたしたちを憐れんでください」と、大声を上げました。
このような病気の人は、レビ記によると「その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」(レビ13:46)とあります。病気による汚れと、宗教的にも汚れている者とみなされたからです。
主イエスの時代でも、このような病気の人たちは、自分たちの町には住めずに、町の外で暮らさなければなりませんでした。
ユダヤ人はサマリヤ人とは交際しませんでしたが、同じ病気の人たちは、同じ場所で生活していたようです。
また、どうしても町の中やそばに行かなければならないときは、大声を上げて自分たちが汚れた者、病気の者であることを知らせる必要がありました。
「汚れている、汚れている」と叫ばなければならないとは、悲しく苦しい事、希望のないことでした。
彼らは、ある時主イエスが村を通られるということを聞きました。
自分たちの住まいから出かけて村へ入り、でも主イエスに近づくことはできずに、遠くから声を張り上げたのです。
主イエスはどうなさったでしょうか。
「祭司たちのところへ行って、体を見せなさい」(ルカ17:14)と言われました。
このような病気が治っているかどうかの判断は、祭司がするからです。
病人たちは、主イエスが手を置いて下さって、その場で癒して下さったら安心したことでしょう。でも主はそのようにはなさいませんでした。
御声をかけてくださったのです。
祭司の所へ行っても治っていなければどうしようもありません。治っている体を見せたいと思ったかもしれません。
主イエスは、彼らの次の行動を御覧になったのです。その御言葉を信じて行動するかどうかです。
彼らは主イエスが言われたように、祭司の許に向かいました。そして、その途中で自分たちが癒されていることがわかりました。
このところから、主イエスを信じ、その御言葉を信じるとは、聞いて一歩を踏み出すことだと教えられます。
彼らが聞いても動かなければ、あるいは元いた自分の所に帰ってしまったら、主イエスの御業を知る事が出来なかったでしょう。
この出来事から私たちも学ぶことができます。
私たちも主イエスを信じて、その御言葉を慕い求めます。
しかし、聞くだけの者であってはならないのです。聞いたら信じて一歩踏み出して歩むことです。
旧約聖書には、重い皮膚病が癒されたナアマンの出来事が記されています。
ナアマンはアラムの司令官で、アラムの王に重用されていました。
彼には大きな悩みがありました。重い皮膚病を患っていたのです。
ナアマンの家では、イスラエルから連れ帰った少女が召使として使われていました。彼女はナアマンの病気を知っていました。
「サマリヤの預言者、すなわちエリシャの許に行けば癒される」と言うと、ナアマンはこの少女の言葉を王に告げました。
王はイスラエルの王に手紙を書き、ナアマンは豪華で高価な贈り物を携えてエリシャを訪ねました。
ナアマンが訪ねて来てもエリシャは会おうともせずに、「ヨルダン川に行って、七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります」(列王下5:10)と、使いの者に告げさせたのです。
ナアマンはエリシャが丁寧に皮膚に触れて癒してくれると思ったので、軽い扱いに怒ってその場を去りました。
しかし、家来たちが「身を洗え、そうすれば清くなる」と言っただけではありませんか」とナアマンを諫めたので、エリシャが言った通り、ヨルダン川に7度身を浸しました。
彼の体は元に戻り、小さい子供のような皮膚を取り戻しました。
ナアマンはただちにエリシャの許に行き、真の神を信じると、信仰の告白をしました。
彼は、癒されると同時に、真の神を信じて救いを受ける事が出来ました。
ナアマンは司令官でしたが、小さい立場の者の声を聞くという謙虚さも持ち合わせていました。
イスラエルから連れて来られた召使の少女の言葉を聞き、また、怒って引き返そうとする時、引き留めてエリシャの言葉に従うように諫めた家来たちの言葉を聞きました。
彼は病気で苦しんだかもしれませんが、病気の為に心を砕かれたのでしょう。
「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」詩編119:71口語訳)。
10人の皮膚病を患っていた人たちも、ナアマンも、時代や立場、身分は違いますが、それぞれが信仰によって一歩踏み出したことから、御業にあずかれたことを覚えたいと思います。
さて、主イエスに癒しを願った10人ですが、祭司に見せに行く途中で、全員いやされました。
その中の一人は、自分が癒されたのを知ると、大声で神を賛美しながら戻って来ました。主イエスの足元にひれ伏して感謝しました。この人はサマリヤ人でした。
主イエスは、「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻ってきた者はいないのか。」(ルカ17:17,18)と言われました。
そして、「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と、宣言してくださいました。
主イエスの恵みと憐みは、いつも注がれています。誰にも変わらず慈しみの御手を伸ばしてくださいます。
大切なのは、主イエスの恵みや慈しみを受けたらどのように応答するかなのです。恵みを当たり前に考えるのは高慢です。
その恵みを受けて、信仰によって歩み出していく姿勢が大切です。
主イエスは私たちにも、「立ち上がって行きなさい。」と信仰の歩みを進むように促しておられます。
生活と人生の全てを主イエスに委ねて、感謝と賛美、救いを喜ぶ日々こそが、天の御国に生きる者の生き方です。
試練や困難な時こそ、信じて祈りましょう。主は答えてくださり、
すべてが益に変えられます。
感謝と賛美、主イエスの十字架の救いを喜ぶ日々を送り続けましょう。
今週のみことば
「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。
神に近づく者は、神が存在しておられること、
また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる
方であることを、信じていなければならないからです。
ヘブライ人への手紙11章6節
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