阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2024年11月24日
第4聖日礼拝
「なすべきことをしただけです」
ルカによる福音書17章7-10節

 一週間も守られ、主の前にでることは何よりも幸いなことです。
霊と真を持って礼拝をささげましょう。
 ルカによる福音書17章の1節から10節までは、主イエスが弟子たちに大切なことを教えられている箇所です。
1節から4節までは、「赦すこと」を教えておられます。兄弟が罪を犯したら戒めなさい。悔い改めるなら赦しなさい。7回罪を犯しても7回悔い改めますと言って来るなら、赦しなさいと教えられました。
7回を7度赦すとは、無限に赦すということです。
次に「信仰」について教えておられます。弟子たちが、信仰を増してくださいと願ったとき、主イエスは、「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』」と言っても、言うことを聞くであろう」と、信仰について教えてくださいました。
そして、忠実な僕について教えてくださいました。
これらの教えは、弟子たちに教えておられます。主イエスを信じて従う者は、すべて主の弟子です。
主イエスは、私たちに教えておられることを、しっかりと覚えたいと思います。
主の時代には「僕」という身分の人たちがいました。彼らは様々な理由で僕として生活していました。
主人の家で、主人に仕える生活です。賃金はもらえませんでしたが、衣食住は備えられていました。また、医師や弁護士のような職業を持つ人でも、僕という身分のままの人もいました。
主イエスがたとえで話されている僕は、畑をたがやしたり、羊の世話をする僕でした。一日中忙しく働いて家に帰って来て、もし食事の支度が出来ていて、「すぐ来て食事の席に着きなさい」と言ってもらえたら、どんなにうれしい事でしょうか。
でも、主イエスはそのようなことはないと言っておられるのです。
現実問題として、主人は食事の支度を命じるのです。
「『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからと言って、主人は僕に感謝するだろうか」(ルカ17:8,9)とあります。
主イエスは、とても厳しいことを教えておられるように感じられます。
私たちは、主イエスが十字架に架かられて私たちの罪を贖って下さったことを、いつも心に覚えて生活しているでしょうか。
主イエスを信じる以前の私たちは、罪を自覚することもなく、滅びに向かっていることも知らずに、自分が良いと思う方向に向かって歩んでいました。
自己中心や自己義も分かりませんでした。罪に支配される罪の僕であることも知りませんでした。
しかし、キリストの救いの光に照らされて、初めて自分が罪人であることが分かり、悔い改めをする事が出来ました。
「神の子」とされ、神の国の者とされました。神の子の特権を与えられた者は、同時に神の僕、「義の僕」とされたのです。
お手本は主イエスです。神の独り子であるのに、苦難の僕としてこの世に遣わされ、十字架の死に至るまで従順な姿勢のご生涯でした。有名なイザヤ書53章は、苦難の僕としての主イエスのお姿が、預言されています。
「彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。 彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」
「背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。」
(イザヤ53:4、5、12)。
主イエスご自身が僕として仕えて、自らを与えてくださったことを知らなくてはなりません。
また、最後の食事の席でも、上着を脱ぎ、腰に手ぬぐいをまいて、弟子たちの足を洗って下さいました。足を洗うのは僕の仕事でしたが、このように身を低くして互いに仕え合うことを示されたのです。
人は、主イエスに救われていても、すぐ心の中に主が喜ばれない思いを持ったり、罪に惹かれる所があります。弱さです。信仰がある、強いなどと思っていると、知らず知らずに足元をすくわれることがあるのです。注意が必要です。
高慢になると、私がなぜこれをしなければならないのかなどと、思ってしまいます。
仕事でも、家庭でもしなければならないことがたくさんあって、忙しい生活です。ストレスが増すこともあるでしょう。
そのような時、ちょっと立ち止まって、自分の心を見ることが大切です。
主イエスにすべてを委ねているでしょうか。祈りを大切にしているでしょうか。お願い事ばかり祈っていることはないでしょうか。祈りは父との会話であって、大切な御心を聞くときです。忙しさのあまり、祈りをおろそかにするのは、「信仰の赤信号」です。
御言葉を求め続けていますか。御言葉は魂の糧です。御言葉をいただかなければ魂は弱り果ててしまい、主イエスに従う事が出来ません。
聖霊に満たされることを毎朝求め続けましょう。悔い改めた魂を聖霊は満たされ、信仰の力によって生きる事が出来るのです。
主イエスは私たちを救われ、それぞれに賜物を与えてくださいました。
その賜物を生かしながら、互いに調和を持ち続けて、神の教会は成長していきます。
賜物がない人はだれもいません。自分の賜物を発見していくことも大切です。
主イエスに仕えるということでは、教会の奉仕があります。神と教会と兄弟姉妹に仕えることに喜びが溢れます。さらに範囲が広がり、隣人にも仕えていく事こそ、神がお喜びになるのです。
仕え合うところ、教会に、家庭に、職場にも地域にも、大きな祝福があるのです。
主イエスは、「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」(ルカ17:10)と言われました。
命じられたことを果たしたからといって、人の称賛はいりません。天の報いがあるからです
キリストに従い、仕えていく喜びこそが報いです。
主イエスの語りかけを、間違いなく聞かなければなりません。自分の思いが先立つと、主に仕えることはできません。
祈りが大切なのです。
祈りと御言葉、礼拝、奉仕、まず自分を聖別しましょう。すべてが整えられてきます。
聖別とは、神の為に自分を、また自分のすべてを、まず取り分けることです。
私たちはいつか必ず主イエスの前に立つときが来ます。主にお会いする備えが毎日できているでしょうか。
義の冠、栄光の冠が備えられていること、そして、「忠実な良い僕だ。よくやった」という御言葉こそが、私たちの目標であり、喜びであることを覚えながら、主イエスに仕えて参りましょう。

今週のみことば
「わたしどもは取るに足りない僕です。
 しなければならないことをしただけです。」
 ルカによる福音書17章10節


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