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阪神チャペルセンター
礼拝メッセージ |
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「祈り、待ち望む」
エフェソの信徒への手紙6章18節 |
今年もアドベントを迎えました。「アドベント」は、待降節と言いますが、来臨、接近する、到来するというような意味があります。
全世界の救いとなってくださった、救い主を心から待つ時であることを覚えましょう。
私たちは、主イエスの尊い十字架のご犠牲により、罪を贖われて救われ、永遠の命をいただく事が出来ました。
罪に縛られ、支配されていた者が、神のご支配の中に招き入れられました。罪が誘っても、キリストという錨に、生活と信仰の土台を置いて、揺らぐことがありません。
試練が続いてくじけそうになっても、御言葉によって強められ、すべてが勝利であることを体験として知るのです。
しかし、勝利の秘訣は、目を覚ましていることです。
私たちは、必ず毎日眠らないと体力を維持できません。体の眠りは大切です。しかし、眠っているときは、当然ですが意識はありません。
無防備で危険が迫っていても、気がつかないかもしれません。
御言葉は、私たちに「目をさましているように」と教えています。
霊的に眠りこまない様にということです。
霊的な眠りは、主イエスの御姿を見失い、信仰もおぼろげな状態になり、十字架の愛を忘れ、世の中に惹かれるような心になってしまうのです。御言葉を聞いても読んでも、その場限りで忘れてしまうかもしれません。
信仰とは、今生きておられる主イエスを体験として知る事ですが、
いつの間にかその御姿を見失ってしまい、しかも見失っていることさえ気にしなくなってしまっていたとすると、悔い改めが必要です。
主イエスから離れていては、命はないからです。主イエスに立ち帰らなければなりません。
主イエスは御自分のことを、「まことのぶどうの木」と証しなさいました。
「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、
その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:4,5)
ぶどうは祝福の象徴の一つです。信仰による祝福は、主イエスにしっかりと結ばれて、主イエスの命に満たされて生きることです。
主イエスの命によって、強くされることを覚えましょう。
主イエスにしっかり結び合う者は、よく祈ります。祈りは祝福の基となります。
しかし、自分の事だけを祈るのではなく、いまだに罪に捕らわれている多くの魂の救いのために祈ります。
兄弟姉妹の祝福を祈り合います。何かの必要の為にも祈り合います。
祈りの課題を持つなら、兄姉に心を合わせて祈っていただくことです。
もし二人、三人が、心を合わせて祈るなら、その祈りは聞かれるのです。
祈りは力です。
どのようにして祈るのか、短い聖句ですがエフェソ6:18には大切なことが示されています。
「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(エフェソ6:18)。
エフェソの信徒への手紙を書いたのは使徒パウロです。
AD62頃、ローマの牢獄から書き送った手紙で、主イエスと一つとなって栄光をあらわすということを記している手紙です。
どのようなときも「聖霊に助けられて祈ること」、これは、聖霊は祈る人に臨まれ、助けてくださるという約束です。
ローマの信徒への手紙8章26節には、「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」とあります。聖霊ご自身が臨んでくださり、執り成してくださいます。
祈りは24時間いつでもささげることができます。時間も場所も制限はありません。いつでもどこででも自由に祈る事が出来るのは、感謝なことです。この恵みの特権をしっかりと行使しましょう。
私たちに、さまざまな祈りと願いが委ねられていることを覚えましょう。私たちは祈りの器なのです。
さらに、絶えず目を覚まして祈るようにと、勧めがされています。
「目を覚まして祈る」とは、いつも天の父に心を向けていること、神との交わりを続けていることです。
祈りは父との会話です。祈りの中に父は御心を示してくださいます。
そして、「根気よく祈り続ける」ことが教えられています。
人の性質は様々ですが、よく根気がないとか、根気が続かないというようなことを聞くことがあります。
少し何かを続けて、すぐに結果がでないと、あきらめてしまったり、厭きてしまうようなところがあります。
もし、信仰や、祈りが続かないとしたら、命に係わる重大事です。
主イエスの十字架の贖いをおろそかにしてはならないのです。
私たち一人一人を愛して、十字架で命を捨て、血を流されたお姿を忘れるようなことがあってはなりません。
私たちは、私たちを愛してくださるまことの愛を、しっかりと信じて受け止めましょう。
私たちがまことの神を知らない時から、神は私たちを愛してくださいました。私たちが知らなくても神は私たちを知っておられて、救いの御手をいつも差し出してくださいました。
私たちが知らなくても、愛の御手はいつもあったのです。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」(Tヨハネ4:9)
神の独り子、救い主が与えられたことこそ、神の愛の表われであり、最大の賜物であることを確信しましょう。
私たちの信仰は、アドベントの季節だけ、主を待ち望むのではありません。毎日主を待ち望みます。
クリスマスは、約束の救いの御子がお生まれになったことを信じて感謝する時です。第一降臨です。
忘れてはならないのは、主イエスが再び来られる再臨の時です。
私たちは信仰の告白として、使徒信条を告白します。
その一節で、「かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。」と、告白しています。第二降臨です。
私たちは、恵みにより、信仰により救われるという、素晴らしい時代に生かされています。これは主イエスの十字架の死と、三日目の復活という御業によるのです。主イエスが再び来られる時まで、恵みに慣れてしまい、眠り込んではいけないのです。
恵まれたらさらに目を覚まして根気よく、「聖徒たち」の為に、信仰の友の為に祈り、教会の祝福を祈り、まだ救われていない魂が救われるように祈り続ける事、これこそが目を覚まして祈る祈りです。
「新約聖書の最後の聖句は「主イエスよ、来てください」
(黙示22:20)で終わっていることをも覚えましょう。
救い主を、さらに祈り待ち望みましょう。
今週のみことば
「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。」
コロサイの信徒への手紙4章2節
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