阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2024年12月8日
アドベント第2聖日礼拝
「神が人となられた」
フィリピの信徒への手紙2章6-11節

  アドベント第二週の聖日を迎えました。クリスマスがだんだん近づいてきます。主イエスをお迎えする心の準備はできているでしょうか。
日々主のご降誕を、祈りつつ待ち望みましょう。
もともとクリスマスは、賑やかなお祭りではありませんでした。
野にいる貧しい羊飼いに、御子の誕生が天使によって伝えられました。
御子がおられたのは豪華な宮殿ではありませんでした。御子は、美しい衣をまとった人々に囲まれていたわけではありません。ごちそうもケーキもありません。御子は飼い葉桶に寝かされていたと、ルカは記しています。
その夜あったのは、天使による賛美と、御子を礼拝し、神を崇める羊飼いの賛美の歌でした。
私たちも、世の中の「クリスマス」ではなく、まことの救い主の到来を待ち望み、心静かに備えて参りましょう。
今日はフィリピの手紙2章から御心を伺いたいと思います。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ・・・」(フィリピ2:6,7)とあります。
救い主は神であるのに、その特権と威厳を捨て去り、人間としてお生まれになりました。しかも、僕の姿を取られたのです。
御子は本来ヘブライ人への手紙1章2−3節にあるように、「神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。」このようなお方なのです。
主イエスがこの世におられた時は、この世における神のお姿であられたのです。
十字架の御業の後に、神の右に着座されたお方です。
神であられるのに、救いの御計画により、マリアより生まれて苦難の人生を歩まれました。神の栄光の姿にこだわることなく、僕として生きてくださいました。
主イエスがこの世にお生まれになった事実は、様々な所にあらわされています。今は紀元2024年です。キリスト誕生の年をもって、紀元前はBC, Before Christ(キリスト以前)、誕生以後をAD, Anno Domini(主の年、私たちの主イエス・キリストの年に)と分けて言い表します。
もし、だれかが作ったのなら、2000年以上世界中で使うことはなく、いつの間にか消滅したでしょう。世の中の主イエスを信じていない人々も、知らず知らずに、主の年何年と使っているのです。
この世に来て下さった真の神、この世におられた時は、人として謙遜の限りを尽くされた主イエスを信じて、心の中心に受け入れたいと思います。
救い主がこの世に来て下さったのは、罪に悩み、彷徨い、滅びに向かうすべての人を十字架で贖い、救うためでした。
暗闇の中を歩み、自分が進むべき方角さえ分からない人々に、命を与えるためでした。
神が指摘なさるのは、心の罪です。だれもが自己中心で、真の神を認めようともせず、自分が良いと思うように生きます。自分の人生は自分のもので、好きにして構わないとだれもが思います。
自分さえ良いと思うところ、自分だけが正しいと思うところに争いが起こるのです。
「自分にはまっすぐに映る道も 終わりは死に至る道ということがある。」(箴言16:25 聖書協会共同訳)。
自分では正しいと思って歩んでいる道も、その終わりは死に至る道があると、警告しています。罪の道から救いの道に方向転換が必要です。
そのために、主イエスは罪のない方なのに十字架に架かり、死んで全ての罪を清めてくださいました。そして、三日目に甦られて、今生きておられるのです。方向転換することは、悔い改める事、主イエスを救い主として心に受け入れることです。
「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(Uコリント5:21)。神の義を得る、すなわち罪許されて永遠の命をいただくことが出来ました。
ルカによる福音書18章に、主イエスが教えられた、たとえ話が記されています。
ファリサイ人と徴税人が神殿で祈ったというたとえ話です。
このたとえ話は、「自分は正しい人だとうぬぼれて、他人を見下している人々」に話されたと、18章9節にはあります。
二人の人が祈るために神殿に行きました。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人でした。
ファリサイ派というのは当時の宗教指導者で、自分たちは律法の教師であり、ことごとく守っていると自慢し、高慢な心を持っている人々でした。主イエスが、地上で人々を救うために神の国を伝えても反対し、敵対し、主イエスを裁いて、十字架に架けてしまった人々でした。
自分の罪に気が付かないで、高慢だったのです。
徴税人は、当時ユダヤはローマ帝国に支配されていたので、徴税人は税金を不正に取り立てて、ローマに治める罪人として、ユダヤ人からは軽蔑され、罪人として扱われていました。
この二人は、人の目にはどのように映っていたのでしょうか。一人は先生、一人は罪人と思われていました。
ファリサイ派は得意そうに立って、心の中で祈りました。自分の自慢をしても祈りにはなりません。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と言いました。
一方徴税人は遠くに立って目を天に向けようともせずに、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と、胸を打ちながら祈りました。
どちらが罪許され、義とされたでしょうか。
義とされたのはファリサイ派ではなく、人からは罪人と糾弾されている徴税人でした。高ぶる者は神に近づくことができません。
「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(ルカ18:14)と、主イエスは教えておられるのです。
人は高慢な心を持ちやすい者です。いつも祈り、罪を悔い改め、十字架の血汐を仰ぐとき、主イエスはその人の内に臨み、聖なる御霊で満たしてくださいます。
主イエスを信じて自分を低くする者を、引き上げてくださることを覚えましょう。
謙遜の極みを尽くされた主イエスは、栄光の座にお着きになりました。
神の右の座に着かれたのです。「神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ2:9―11)
主イエスの謙遜さには、これ以上ないほどの尊い、高い栄光の座が備えられていました。わたしたちの為に人としてこの世に来て下さり、罪の贖いを成し遂げてくださった、キリストの謙遜に学び、ひれ伏し、悔い改めをもって、クリスマスをお迎えしましょう。

今週のみことば
「これは万民のために整えてくださった救いで、
 異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」
 ルカによる福音書2章31-32節


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