阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2025年1月19日
第3聖日礼拝
「キリストに捕らえられて」
フィリピの信徒への手紙3章12-14節

 恵みの中に日々を過ごす事が出来て、感謝します。
今日も心を合わせて父なる神を礼拝しましょう。
御言葉によって魂が養われ、信仰によって歩める幸いを覚えます。
御言葉は私たちを導く光です。御言葉を慕い求めてまいりましょう。
だれでも自分の人生を考え、目標を持って歩むことを願っています。
幼い時には、どのような職業を持ちたいとか、どのような大人になりたいとか、心に希望を持っていたと思います。
現実の問題として、その希望は折々に変化し、また、希望通りには歩めないということも知ります。
挫折を味わうこともあるかもしれません。希望を失うこともあります。
しかし、イエス・キリストという方を信じた時、希望は失望に終わらないということを知るのです。
人生の全てに主イエスの御手があり、最善をなしてくださるからです。
フィリピの信徒への手紙3章12節には、「何とかして捕らえようと努めているのです。」という言葉があります。これを記しているのは使徒パウロですが、何を捕えようとしているのでしょうか。
多くの書簡を記して送り、使徒として福音のために大きな働きをしたパウロが、救いの恵みを何とかして捕らえたいと告白していることに、注目したいと思います。
私たちは、主イエスを信じて救われました。それは、「自分がキリストに捕らえられている」(フィリピ3:12)からなのです。捕らえられているとは、キリストが御自分のものにしてくださったという意味です。   主イエスをキリストとして信じて、生涯従う決心をしたのです。その時から信仰生活が始まりました。
信仰生活とは、聖書の言葉を信じる事から始まります。何より大切なのは、今生きておられる救い主、キリストに生かされていることを覚えながら、御言葉を信じて従う生活です。
生きておられるイエス・キリストと共に歩むことが信仰生活です。
キリスト、救い主が私の罪を赦し、十字架に架かって死んでくださった。キリストに救いがあり、慰めと希望があることを知ったときから、信仰の生活はスタートします。
キリストとの出会いは、人にとって大きな方向転換の時です。罪の闇から光の中へ、滅びから永遠の命への方向転換です。
パウロが苦労して建て上げて行った当時の教会の中には、キリストの事も信仰の事もすべて知っている、完全な者なのだという人たちがいました。
しかしパウロは、主イエスの救いの確信はしっかりと持っている。主イエスの十字架によって、罪が赦されたことも知っている。新しい命に生かされていることも信じている。キリストの福音のために困難があっても働き続ける。キリストの栄光の為に生きていく、そのような歩みの中にあって、終わりの日に復活させてくださり、完成させてくださるのを待っていると言っているのです。
「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」
(フィリピ3:13,14)
パウロはしばしばキリストにある歩みを、競技にたとえました。
「わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません」(Tコリント9:26)と)あります。
陸上競技で、コースを外れてしまえば、失格してしまいます。ボクシングでも相手と戦わないで、空を打っていても試合に勝つことはできません。
パウロは後ろのものを忘れて走ると言いました。
パウロにとっての人生の大転換は、生きておられるキリストに出会った時です。後ろのものとは、キリストに出会う前の生き方の事です。
そのことがフィリピの信徒への手紙3章5節以下に記されています。
生まれて八日目に割礼を受け、ユダヤのベニヤミン族の出身。ヘブライ人の中のヘブライ人であったことが誇りでした。ファリサイ派のエリートで、申し分のない生まれと、学識を誇りました。
そのような自分とファリサイ派の誇りによって、キリストを信じる者たちに迫害を加えることが、正しいことと信じていました。
しかし、復活のキリストに見いだされた時に、すべてが変わりました。
「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」(フィリピ3:7―9)
キリストが自分のために十字架に架かり、血を流されて命を捨て、罪を贖って下さったという尊さを知ったとき、今までの自分の持てるものすべては価値のないもの、塵あくたであることを知りました。
新しい生き方、それはキリストの為に生きる、キリストを伝える、神の栄光の為にゴールを目指すという、目標が定まったのです。
「前のものに全身を向けつつ」(フィリピ3:13)走るとあります。
口語訳聖書では、「前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り」と訳されています。
同じ意味ですが、とにかく前を目指して、全身を前に伸ばして全力で走り抜くという姿勢です。
パウロは、この世の中での賞賛や、地位、名誉は神の国に入るために必要のないものと確信していました。
神は神の栄光の為に生き抜いた者たちに、すばらしい賞を備えておられることを知っていました。
新約聖書の時代にも、競技大会で優賞した者には、オリーブや月桂樹の冠が与えられました。大変な名誉です。
しかし、この冠は時が過ぎると枯れてしまいます。
競技者は朽ちる冠を得るために節制し、努力するけれども、信仰者は朽ちない冠を得るためにそうすると、Tコリント9章には記されています。
「競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。」(Tコリント9:25)
キリストによって捕らえられて、義とされた者は、朽ちない冠、すなわち永遠の祝福の冠が備えられていることを、仰ぎ望むのです。
礼拝の中で神の言葉を聞き、信じて新しい力をいただきます。
信仰のゴールを目指してひたすら走っていることを確信します。
それでも時には、力がないように思えたり、キリストのお姿が見えない様に思うときがあるかもしれません。最後までひたすら走る事が出来るのだろうかと、思うことがあるかもしれません。
でもこの信仰の生活は、だれかと比べることも必要ないし、自分のコースを走ればよいのです。私たちが弱くても、もうすでに自分はキリストに捕らえられていることを信じるのです。
主イエスが共におられて、一緒に走ってくださっている。励まし、力を与えてゴールするまで導かれていることを信じるのです。
主イエスは私たちの手をしっかりと取ってくださり、離されることはありません。
きょうもこれからも、私たちが御国に入るその時まで、キリストに捕らえられている幸いを覚えて、進んでいきましょう。

今年のみことば
「わたしは世の光である。
 わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
 ヨハネによる福音書8章12節


 ページのトップへ
  
2025年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ