阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2025年1月26日
第4聖日礼拝
「喜びで満たされる」
ヨハネによる福音書16章23-24節

 主イエスの恵みを心から感謝します。
朝目覚め、一日が備えられていることは大きな恵みです。与えられている時を、神の栄光の為に用いる事が出来るように祈りましょう。
主イエスを信じてから、私たちは皆変えられました。聖書の御言葉を喜び、信じて進みます。
また、祈ることを知りました。どちらも主イエスを信じていなければできない事です。
主イエスを信じていなくても、聖書を読む人はいるでしょう。それは、何か良い影響を得られるのではないかと思うからです。
しかし、主イエスを信じなければ、それが救いに導く神の御言葉であることが分かりません。主イエスを信じて御言葉の真理に、初めて目が開かれるのです。
「御言葉が開かれると光が差し出で 無知な者にも理解を与えます。」(詩篇119:130)
エチオピアの宦官は、エルサレムでの礼拝の帰途、イザヤ書を読んでいましたが、いったい誰の事を記しているのか分かりませんでした。
心の中に救いを求める思いが強くありました。聖霊はフィリポを遣わして、この書は、メシア、主イエスのことを預言している事、そして主イエスの十字架の救いを伝えました。宦官の心には、主を信じた時に聖霊の光が差し込み、救われて、洗礼を受けました。喜びに満たされて国に帰って行きました。彼は国へ帰ってから、主イエスを伝えたのでしょう。現在もエチオピアにはエチオピア正教が伝えられています。
私たちは祈ることについても、主イエスを信じて、祈る者になったことを知っています。
信仰を持つ以前にも、祈りにも似た思いはありました。自分の苦しみや、希望について、様々な機会に願いがかなうようにと、願ったのです。
それは神社や仏閣のようなところであったかもしれません。あるいはだれかに聞いてもらったことがあったかもしれません。
しかし、人が手で造ったものに命はありません。どのように豪華絢爛で歴史があるような寺院で祈祷しても、それは願いを吐露したのであって、救いはないのです。
主イエスは祈りについて教えてくださいました。
「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」(ヨハネ16:23,24)
私たちは、かつては罪の為に父なる神と断絶して、救いに遠い者でした。しかし、父なる神はその独り子を世にお遣わしになり、御子は罪人の罪を背負われて、十字架に架かり、身代わりとして命を捨てて下さいました。罪の贖いとなってくださった救い主を信じた者は、だれでも罪を赦され、義とされて、神の子としての身分が与えられました。
神との和解です。恐れることもなく、はばかることもなく、神の前に出て、礼拝をささげることができるのです。
父なる神を、「アッバ、父」と呼ぶことが許され、父にどのようなことも祈る事が出来るのです。
生きておられる神は、祈りに耳を傾けておられます。
良い物を与えようと待っておられます。救いと命があります。神の祝福があるのです。
まことの神に祈る事が出来るのは、大変大きな祝福なのです。
主イエスは、どのように祈るのかを教えてくださいました。ヨハネによる福音書13章から、過ぎ越しの食事の記事が始まります。いわゆる最後の晩餐がもたれます。
その時主は、「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(ヨハネ13:1)とあります。御自分の弟子をこれ以上ないほどの愛で愛し抜かれたのです。
ご自分は十字架に架かられて死なれ、復活されるのですが、もう弟子たちと今までのようにはおられないことを語られました。しかし、弟子たちは、「何のことなのだろう、何を話しておられるのか分からない」と、理解できずにいました。
主は復活の主とお目にかかれる時には、心からの喜びがあり、それは誰にも奪うことのできない喜びであることを教えてくださいました。
そして、「わたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる」(ヨハネ16:23)と約束されました。
祈りは、複数で祈ることもあります。二人が心を合わせて祈る祈りに、答えを下さいます。
一人で切に祈る祈りも大切です。一人になって隠れた所においでになる父に祈る祈りです。「密室の祈り」と言われる祈りです。
祈りはお願いだけではなく、父なる神との会話であることを知らなければなりません。
父はいつも私たち一人一人の名前を呼んで、待っておられます。
父の前に出て、「私はここにおります。」と、語りかけを待つ祈りは大切です。
密接な交わりの中で、何を求め、何を願うのかが分かります。
主イエスは、「わたしの名によって父に願う」ことを教えられたのですが、主イエスご自身も、わたしの名によって願うなら、何でもかなえると約束されました。
「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」(ヨハネ14:13,14)。
このようなすばらしい約束があって、私たちは祈ることができるのです。
ほんとうに素晴らしいことです。祈りは神の子の特権です。
「イエス様の名によって祈る」、このような特権にあずかれていることを何度でも感謝したいと思います。
祈りは、父なる神に向かい、聖霊に助けられて、イエスの名によって祈ります。
真の神に向かう時、敬虔な清さに満たされます。聖霊の働きです。主イエスは何でも聞かれると言われたのですが、自分勝手な祈りはどう聞かれるのでしょうか。
私たちは弱く、どうしても自分の思いを通したくて祈り求める事もあります。
しかし、真剣に祈り続けると、自分の肉の思いは清められて、御心を祈るようになります。
主イエスがゲッセマネで祈られた祈りは「十字架の苦しみ、(杯)をできれば取り除いて下さい」という祈りでした。しかし、「私の思いではなく、御心がなりますように」と祈られて、十字架の道を歩まれました。
主イエスの名によって祈るとは、主イエスご自身の権威によって祈るということです。
聞かれないわけがありません。もしその祈りが御心でなければ、自分の思いではなくても、神の最善がなされることを知るでしょう。
イエスの名により、平和を祈りましょう。イエスの名により魂の救いを祈りましょう。イエスの名により、自分や兄姉の賜物が生かされて、キリストの体、教会が建て上げられるよう祈りましょう。イエスの名により癒しを祈りましょう。
イエスの名によって祝福を祈り合いましょう。
私たちはこの世の喜びではない、だれも奪うことのできない天の喜びで満たされるのです。
救い主を心から崇めましょう。


今年のみことば
「わたしは世の光である。 わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、
 命の光を持つ。」
 ヨハネによる福音書8章12節



 ページのトップへ
  
2025年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ