阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2025年2月16日
第3聖日礼拝
「わたしの愛にとどまりなさい」
ヨハネによる福音書15章9-10節

 きょうも父なる神を崇め、礼拝できることを感謝します。
毎日寒いですが、寒さの中にも健康が守られていることを感謝します。
毎日、御言葉によって魂が養われて、ますます父の栄光を現せるように進んで参りましょう。
ヨハネによる福音書15章は、主イエスが最後の食事の席で弟子たちに大切なことを教えている箇所です。
ヨハネによる福音書13章から最後の食事の記事が記されていますが、主イエスは弟子たちを、この上なく愛し抜かれました。
そして、食事の席から立ち上がられて、上着を脱ぎ、腰に手ぬぐいをまとわれて、弟子の足を一人一人洗い、拭いて下さいました。
主イエスは、僕がする仕事である足を洗って、謙遜に仕え合うようにと教えられたのです。
足を洗っていただいた弟子の中には、イスカリオテのユダもいましたが、彼は主の教えを聞きながらも、部屋を出て、夜の暗闇の中に去って行きました。
「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。」(ヨハネ13:30)この時、他の弟子たちはユダが退出したわけが分かりませんでした。しかし、短い節ですが、ヨハネは夜の暗闇の中に出て行ったことが記されていて、ユダの心の深い闇を現しています。
主イエスは、御自分が間もなく十字架に架られることを知っておられたので、弟子たちに最後の教えをされました。
大切なこととして、何よりも「わたしの愛にとどまりなさい」(ヨハネ15:9)と教えておられることを心に留めたいと思います。
ヨハネ15章には、「まことのぶどうの木」の教えが記されています。
私たちも良く読み、教えられている聖書の箇所です。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネ15:5)と言われました。
そして、「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(ヨハネ15:5)と続けておられます。
15章の1節から8節までには何回も、「つながっていなさい」あるいは「つながっていない」、「つながっていなければ」という言葉が、繰り返し語られています。
まことのぶどうの木である主イエスにつながっていれば、必ず豊かな実を結べるのです。主イエスの命に生きるからです。
つながっていなければ、命はありません。当然のことです。
枯れてしまい、やがては滅びに向かいます。
ユダは主イエスの教えを聞きながらも、真の愛と命を絶ち切り、世の富と世の生活を愛してしまったのでしょう。主イエスを銀貨30枚で祭司長たちに売ったのです。銀貨30枚は、奴隷一人の価値です。
マタイによる福音書には、銀貨を受け取った時から主イエスを引き渡す機会をうかがっていたとあります。主イエスの命に生かされていないと恐ろしい結果を刈り取ります。後に後悔してもどうしようもありませんでした。
主イエスが最後の食事の席で教えられたのは、しっかりとまことのぶどうの木である主イエスに繋がっていることでした。
主イエスが謙って(へりくだって)弟子たちの足を洗われたように、互いに謙って(へりくだって)仕え合うようにという事でした。
さらに、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」(ヨハネ15:9−10)と教えてくださいました。掟とは、互いに愛し合うことです。
主イエスは、まことのぶどうの木である主につながっているようにと、教えてくださいました。つながっているという言葉は、とどまっているということばと同じです。
ですから、あなた方はまことのぶどうの木であるわたしにとどまりなさいと言われていることに、心を留めたいと思います。
そして、「わたしの愛にとどまりなさい」と教えてくださいました。
とどまる、つながるというのは、「メノー」というギリシャ語です。
この言葉は、また、「泊まる」とも訳せる言葉です。
「とどまる」、「つながる」、「泊まる」という意味です。
ヨハネによる福音書1章35節以下に、バプテスマのヨハネの二人の弟子が、主イエスについていき、そこに泊まったという記事があります。
バプテスマのヨハネが、歩いている主イエスを見て、「見よ、神の子羊だ」(ヨハネ1:36)と言いました。
それを聞いた二人は主イエスについて行ったのです。
主イエスが「何を求めているのか」と聞かれたので、二人は「先生どこに泊まっておられるのですか」(ヨハネ1:38)とお聞きしました。
主イエスが、「来なさい。そうすれば分る」と言われたので、二人はついて行って、主イエスの泊まっておられる所に泊まりました。
一人はペトロの弟アンデレであったとあります。
二人は、イエスがバプテスマのヨハネが言ったように、「神の小羊」、「メシア」であることがわかりました。主イエスの許に泊まった、(とどまった)時に、霊の目が開かれたのです。
さっそく兄のペトロに、「わたしたちはメシア ー『油を注がれた者』という意味― に出会った」と言って、ペトロを主イエスの許に連れてきました。
ルカによる福音書19章には取税人の頭であったザアカイの出来事が記されています。
ザアカイは、エリコの住人でしたが、ローマ帝国の手先として、同胞から税を不法に取り立てる徴税人の頭、罪人であると、ユダヤ社会からは受け入れられませんでした。
金持ちではあっても、人に受け入れられない苦しさをいつも持っている人でした。
ある時、主イエスがエリコに来られることを聞き、イエスがどんな人か見たいと思ったのですが、背が低かったので、人々に遮られて見る事が出来ませんでした。それで、いちじく桑の木に登ってイエスを見ようとしました。ところが、主イエスがザアカイを見上げて、「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(ルカ19:5)と言われました。「あなたの家に泊まりたい」とは、「わたしは今日あなたの家に泊まらなければならない」という、強い意味があります。
イエス様が言われた、泊まるとは、とどまるという意味です。
ザアカイは喜んで主イエスを家にお迎えしました。心からの悔い改めをする事が出来ました。
主イエスとつながると、新しい命に満たされ、新しい人生が始まります。ザアカイは、新しく生まれ変わる事が出来ました。
神の恵みと、主イエスの愛の実が実る人生が始まりました。
それは、ザアカイの悔い改めの言葉に表されています。
「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(ルカ19:8)。主イエスは、「今日、救いがこの家を訪れた。」と宣言されました。
私たちは、主イエスにとどまっているでしょうか。そうであるなら、主イエスの愛にとどまっていて、愛の実が結ばれます。
主イエスの愛を表し、愛による十字架の救いを語り続けることです。生活と言葉によって主イエスの愛を伝えていきましょう。必ず実が結ばれることが約束されています。尊い恵みを感謝し、崇めましょう。


今週のみことば
「わたしの愛にとどまりなさい。」
ヨハネによる福音書15章9節




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