阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2025年2月23日
第4聖日礼拝
「最後の者にも」
マタイによる福音書20章13-16節

 いつも主イエスの愛と導きの中に歩むことができる幸いを、感謝します。きょうも愛する兄姉とともに礼拝をささげ、主を崇め、待ち望みましょう。
私たちは、食物だけで生きるのではなく、霊の糧をいただいて生きる事が出来ます。個人の生活でも、一日の初めに礼拝をささげることは、大切なことです。
父なる神と交わり、祈りと御言葉によって、御心を知り、かけがえのない一日が祝福の一日になるからです。主イエスを賜ったほどに愛されている自分を発見して、喜びに満たされるのです。
私たちは、主イエスを信じて、神の子とされ、今、恵みをいただきながら歩んでいます。時には試練に苦しんでも、主イエスが共におられて、勝利させてくださる事を知っています。
さらに主に近づきましょう。
主イエスはある時、「ぶどう園の労働者」のたとえで、天の国について教えてくださいました。
ある家の主人が、ぶどう園で働く人を雇うために、夜明けに出かけました。主人は一日1デナリオンの約束で、雇った人をぶどう園へ送りました。1デナリオンは一日の労働の報酬とされていました。
9時ころ行ってみると、何もしないで広場に立っている人がいたので、「あなたたちもぶどう園へ行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう」と言ってぶどう園へ行かせました。また、12時ころと3時ころに広場へ行って、同じようにしました。
5時ころにも行ってみると、ほかの人が立っていました。なぜ何もしないで一日中ここに立っているのかと聞くと、彼らは「だれも雇ってくれないのです」と答えました。
主人は、「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と言って送り出しました。
夜明けに雇った人には、一日1デナリオンの約束をしましたが、9時以後に雇った人たちには、はっきりとした報酬は約束しませんでした。「ふさわしい賃金を払う」とだけ約束しました。
夕方になって、主人は監督に、「労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい」と言いました。
そこで、5時ころに雇われた人たちが来て1デナリオンを受け取りました。一日の報酬が一デナリオンですから、たった1時間しか働かなったら、12分の1デナリオンでよいわけです。
最初に来た人たちは、1デナリオンよりもっと多く貰えるだろうと思いました。しかし、彼らも1デナリオンでした。
それで、受け取ると、主人に不平を言いました。
「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは」と言ったのです。
主人は、「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい」(マタイ20:13、14)と言いました。
主人は、不平をいった人に、「友よ」と呼びかけました。主人と雇われた人は、雇い主と雇われた人という立場になるのですが、「友よ」と呼びかけました。暖かい目と心で呼びかけたのです。
主人は決して不当な扱いをしたわけではなく、最初から1デナリオンの約束をしたのです。しかし、一日中働いた人は、最後の人が1デナリオンなら、自分はもっとたくさん支払ってもらって当然と思ったのです。
雇ってくれる人がいなくて、一日中立ち続けていた人は、もし1デナリオンの報酬がなかったら、その日の食物を買うことが出来なかったでしょう。家族も待っているのです。主人はそのことを知っていました。
一日中立っていても、仕事がない時の悲しさを主人は理解していました。
主人は不平を言った人に、「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」
(マタイ20:14)と続けて言いました
このたとえ話は、天の国についてのたとえであることを覚えましょう。
天の国はこの世とはまったく違います。
この世では、働けない人は弱者であり、働くことのできる人が勝者という評価になるのかもしれません。
また、他の人が自分より良い待遇であれば、気持ちが騒ぎ、不満を覚えてしまうかもしれません。
天の父は、どのようなお考えを持っておられるのでしょうか。
力のない者、弱い者、悲しんでいる者、途方に暮れている者に、目を留めておられるのです。
罪を悲しみ、罪に苦しむ者を救うお方です。
そして、誰でも同じように救われるようにと願い、手を差し伸べていてくださいます。
天の国に入るためには、主イエスの十字架の贖いを信じて受け入れることが必要です。それ以外に救われる方法はありません。
「神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐みによって、わたしたちを救ってくださいました。・・・こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトス3:5,7)
恵みにより、憐みにより、十字架の贖いを受けていること、天の国の民とされていることを、何よりも感謝します。
主イエスを信じる者の心と目はどこに向いているでしょうか。
この世や、他の人にばかり向いていると、さまざまな不満や不平が湧いてしまう事があります。人と比べて自分はどうなのかと考えるのです。
朝早くから働いた人は、確かに暑さや疲労をこらえながら働きました。ですから、一番遅い人が1デナリオンの報酬を受けた時、自分はもっと受けて当然と思いました。
でも、主人の心は違いました。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」(マタイ20:14)と言ったのです。「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」と言われました。
そして、「わたしの気前のよさをねたむのか」(マタイ20:15)とも言いました。ねたむのかという言葉は、原語ではすこし分かりづらいかもしれませんが、「悪い目」をするのかという意味です。
自分が良ければ、人はどうなっても構わないというのが「悪い目」なのです。
自己中心と考える事が出来ます。天の父が憐み深いように、主イエスにあって憐みの心を持つことが、御心と覚えましょう。
主イエスは山上の説教の中で、「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい」(マタイ5:41)と教えておられます。
一ミリオンは約1.5キロメートルです。当時のローマ帝国は、支配しているユダヤの人々に対して、重荷を背負わせて一ミリオン行かせる事が出来ました。ユダヤ人にとっては、屈辱であり、意に添わず苦痛があるだけでした。
しかし、主イエスは、その人と二ミリオン行けと言われたのです。
強制されたからではなく、自発の意思で重荷を負って歩くようにと教えられました。
これらの主イエスの教えこそが、この世における天の民の勝利の秘訣であることを、しっかりと心に覚えて、世に証ししていきましょう。


今週のみことば
「兄弟愛をもって互いに愛し、
尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。
喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」
ローマの信徒への手紙12章10,15節


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