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阪神チャペルセンター
礼拝メッセージ |
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「園丁の執り成し」
ルカによる福音書13章6-9節 |
寒さの中にも春の気配を覚える季節になりました。
恵みを数えながら日々を歩みたいと思います。
今日は、実のならないいちじくの木のたとえから、天の父の御心を探って行きたいと思います。
私たちは、主の恵みを感謝しています。父の愛に守られています。
主のやさしい御心に励まされます。しかし、気を付けないと、自分にとって都合の良い御言葉だけを受け取ることになります。
神は、御心に沿って生きるようにと、時には厳しいお言葉も下さるのです。
主イエスはこのたとえをお話になる直前に、二つの災いに触れておられます。
一つは総督ピラトがガリラヤ人を殺害したこと、もう一つは、シロアムの塔が倒れて18人が死亡したことです。
当時の権力者による迫害、そして思わぬ事故で人が亡くなるというショックな出来ごとがそのころあったのです。
それは、誰もが知っている出来事でした。
そのような出来事があると、たいてい人は、罪の報いを受けたからそのような目にあうと考えます。
ピラトに殺害された人たちも、シロアムの塔で死んだ人たちも、罪深い者だから災いの結果を受けたと思うのです。「因果応報」の考え方です。
主イエスは何と言われたのでしょうか。「決してそうではない」と言われました。
「あの18人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆おなじように滅びる」(ルカ13:4,5)
と言われました。
私たちは不幸の原因をいろいろと考えます。思いがけない事故、自然災害、病気、社会問題など、なぜ次々とおこるのかと思います。
それらの原因は「罰が当たったから」と考えると、また、次に罰が当たるかもしれないという恐れを持ち、新しい希望に生きることなどできません。
主イエスは、「実のならないいちじくの木」のたとえで教えておられます。
「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。」(ルカ13:6)
ユダヤではいちじくも、ぶどうも祝福の象徴です。ぶどう園にいちじくの木を植えておくこともあったようです。
このぶどう園の主人は、いちじくの実を楽しみにしていたのでしょう。実を探しに来ました。しかし実はありませんでした。
そこで、園丁を呼んで、「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか」(ルカ13:7)と言いつけました。
主人はいちじくが実を実らせなかったので期待を裏切られたのでしょう。3年間も忍耐をもって待っていたのです。
「ふさがせておくのか」というのは、「無駄にする」とか、「遊ばせておく」という意味です。
それは、いちじくの木が地面の養分を吸い上げながら実らないという意味があります。
主人の言葉は絶対のはずですが、園丁は何と言ったのでしょうか。
「ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥しをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」(ルカ13:8,9)と執り成しました。
園丁の言葉を考えて見ましょう。一つは、「一年待ってください。木の周りを掘って肥しをやってみます。」ということと、「それでもだめなら、切り倒す」ということです。
園丁は、いちじくの木が実を実らせるよう努力すること、だめなら切り倒すこと、最後のチャンスであることを認めています。
この主人と園丁のやり取りから、主人がどれほど実を求めているかが分かります。
私たちは主イエスを信じて救われました。主イエスの十字架の血ですべての罪が赦されて、永遠の命をいただきました。
それは、神の恵みと愛によります。
私たちの信仰は生活です。神の愛に応答し、神の栄光をあらわす生き方をしているだろうかということを、いつも覚えることが必要です。
「実」は、自分の努力で実らせることはできません。養分を吸ってみのらせます。
私たちは、主イエスの永遠の命で生かされて、実を実らせるのです。
主イエスは、わたしはまことのぶどうの木と証しされました。
あなたがたは枝、わたしにつながっていなさいと言われています。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(ヨハネ15:5)と言われたのです。
私たちは、主イエスの命で生かされているのですから、実を結ぶはずです。
ぶどう園の主人が求めていたのは、どのような実なのでしょうか。
「愛」の実を求めていたのです。神は愛です。アガペーの愛で人を愛し、その独り子をこの世に遣わされました。
「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。
愛することのない者は神を知りません
神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。」
(Tヨハネ4:7―9)。
園丁は何とかして実が実るよう、一年間の猶予を主人に願い、
いちじくの木の世話をすると言いました。実を実らせないいちじくの木を大切に思っていたのでしょう。
主イエスの執り成しを覚える事が出来ます。
私たちも主イエスの憐みと、執り成しによって支えられていることを、しっかりと心に覚えましょう。
土に養分はあるのに、実が実らないのには、訳があります。
枝のどこかに養分を通さない、ふさがれた部分があるのです。
「罪」があって、命をふさいでいたとしたら、どうしたらよいのでしょうか。主イエスの十字架で全ての罪が赦されているのだからと、日々の生活の中で自分の内にある罪について省みることがないと、命を失うのです。罪は神から目をそらせようとします。罪のままで大丈夫だとそそのかします。しかし、命の実は結ばれません。
いつも神の国の地に根差しているか、栄養を妨げる罪はないかと省みることは、本当に大切なことです。
主イエスは、このたとえで何を教えておられるのでしょうか。悔い改めについてです。悔い改めとは、天の父に、神の方に、心を向けることです。方向転換です。
滅びるというのは、真の神との関係を切る、断絶するということです。暗闇の道を行くことです。
十字架は、神との断絶から和解への道です。ちょうどその逆の事です。
そのようなことがあってはなりません。
まことの執り成し手である主イエスは、滅びようとする頑なな魂をかえり見て、もう一年待ってください。手入れをしますと、父に懇願してくださいます。
そして、父の御心もひとりも滅びない様に、忍耐して待ち続けるということです。
日々悔い改めをもって、父なる神に近づき、主イエスの執り成しを感謝しましょう。
多くの方々に、まことの救いを語り続けましょう。
今週のみことば
「主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。
そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、
あなたがたのために忍耐しておられるのです。」
Uペトロの手紙3章9節
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