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阪神チャペルセンター
礼拝メッセージ |
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「主イエスの洗礼」
マタイによる福音書3章13-15節 |
3月も最終の日曜日を迎えました。桜も咲き始めたようです。春をお造りになった天の父を崇め、礼拝をささげましょう。
プロテスタントの教会には、礼典が二つあります。一つは聖餐式です。そしてもう一つは洗礼式です。
次回の聖餐式と洗礼式は4月13日に予定されています。
皆さんは、いつどこで洗礼を受けられたでしょうか。それぞれの時、またそれぞれの場所でお受けになったことと思います。
主イエスを救い主として心に受け入れ、生涯この方に従う決心をしたときに、受洗されたと思います。
主イエスを信じていたら、別に洗礼は受けなくても良いのではないかと思う人がいるかもしれませんが、それは違います。
主イエスのお姿から信仰の姿勢を学びたいと思います。
主イエスはどのようなお方でしょうか。神の独り子であり、罪とは何のかかわりもないお方です。
その神の独り子が、世の罪を贖う神の小羊となってくださいました。
私たちは、罪のない方が十字架に架かられ、死んでくださり、三日目に復活されたので、救いの御業に預かることができたのです。
バプテスマのヨハネはヨルダン川で人々にバプテスマを授けていました。
「そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。」(マタイ3:5、6)と記されています。
ファリサイ派や、サドカイ派の人々まで洗礼を受けに来たので、ヨハネは彼らに「悔い改めにふさわしい実を結べ」と、厳しい言葉を掛けました。
そして、神の子である主イエスこそ、自分より優れたお方であり、尊い救い主であることを証ししたのです。
その主イエスが、わざわざガリラヤからヨルダン川のヨハネの所にやって来られました。水のバプテスマを受けるためにです。
当然ヨハネは、「わたしこそ、あなたから洗礼(バプテスマ)を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」(マタイ3:14)と言いました。
主イエスは何と言われたのでしょうか。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(マタイ3:15)とお答えになりました。
そこで、ヨハネは主イエスの言われるとおりに洗礼(バプテスマ)を授けました。
主イエスは水から上がると、聖霊が鳩のように降って来るのを御覧になり、天の父の「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3:17)という声をお聞きになりました。
主イエスがこの世に来られたのは、世の人々を罪から解放し、永遠の命を与えるためでした。
それは、救いという言葉や、義とされるという言葉で表されます。
人はなかなか罪を自覚することができません。世の中には恐ろしい犯罪が頻発し、また、人生を悲観して死を選ぶ人が絶えません。悲しい事実です。罪の誘惑も本当に多くあります。
多くの悲劇は、罪がわからないために起きていると、考える事が出来ます。心の罪です。人を愛する心があれば、人を不幸にしたいとは思いません。家族を愛し、隣人を愛すことができるなら、そのために励むことができます。
自己中心の塊では、自分の思いを貫くことばかりで、自分も人も幸せにすることはできないでしょう。罪に気が付かないことが不幸の始まりなのです。
そのような世の人々を救うために、主イエスはこの世に来てくださいました。十字架で人々の罪の身代わりとなるためでした。
主イエスを自分の救い主として信じた時から、人の心が変わります。
心がさまざまな苦痛で満たされていたとしても、主イエスが引き受けてくださるという確信を持ちます。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。私の軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28―30)。
信じる者は、主イエスが与えてくださる平安に満たされます。
主イエスの救いを受けるために必要なこととは何でしょうか。
「悔い改め」です。悔い改めとは、「ごめんなさい」とあやまることではありません。もちろんそれも大切なことでしょう。
悔い改めとは、今までの生き方の方向を変えるということです。
今まで心の中にあった世の中の大切なことは、実は二番目以下のものであり、一番大切なことは主イエスを救い主としてお迎えして、従う事、その決心が悔い改めです。
受洗とは、自分が主イエスを信じていることを、公に告白することです。
悔い改めた人は、それから悔い改めにふさわしい実を結ぶ歩みになります。少しずつ主イエスの愛の品性が実ります。
クリスチャンとしての自覚と、世に証ししていくという姿勢も芽生えていきます。
自分にはなかなか証しの力などはないと思っていても、御言葉が保証しています。
「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」(ガラテヤ3:26、27)とあります。
「キリストに結ばれている」、「キリストを着ている」とあります。「キリストに結ばれている」とは、命でつながっているということです。
まことのぶどうの木に枝が命で結ばれ、生かされているように、信じる者は豊かな命で結ばれています。内側は命で満たされているのです。
「キリストを着る」とは衣服をまとうことです。当然衣服は体に纏うもので、体を暑さ寒さ、怪我や病気から守る働きがあります。
外側の守りです。そのように内も外も守られていることを、しっかりと覚えましょう。
それだけではなく、主イエスの御霊によって、愛と力に満たされて、信仰の歩みが進められていきます。
クリスチャンとは、「新生」した者の事です。新しく生まれるという体験は、求めるならだれでも受けられます。
「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」(ローマ10:9,10)と約束されています。
信仰により、恵みにより、キリストを信じる者はだれでも救われることを心から感謝します。
主イエスが受洗の必要のないお方なのに、正しいこととして受洗されたのは、私たちの罪を主イエスが引き受けられるという事、そして、
本来罪の結果を受けるはずの私たちが、主イエスの義を受けるためであることを、心にしっかりと覚えましょう。
主イエスを信じた私たちは、「地の塩、世の光」なのです。塩の味を持ち、光を輝かすことのできる者にしていただきました。
数えきれない尊い恵みをいただきながら、この世の旅路を歩み続けられることを感謝し、主イエスこそ救い主、私たちに救いを下さり、永遠の命に生かして下さるお方であることを、告白し続けて行きましょう。
主に賛美をささげ、喜びの心をささげましょう。
今週のみことば
「あなたがたは皆、信仰により、
キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。
洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、
キリストを着ているからです。」
ガラテヤの信徒への手紙3章26-27節
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