阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2025年4月20日
第3聖日イースター礼拝
「希望の朝」
マルコによる福音書16章1-8節

  イースターの朝を迎えました。復活の主を記念して、礼拝をささげましょう。
主イエスは金曜日に十字架に架けられ、全世界の罪の贖いの為に死んでくださいました。罪のない方が、罪ある者の全ての罪を担われたのです。
当時は日没から新しい一日が始まると数えられていました。
直ぐに安息日が始まるので、その日の内に十字架から遺体を降ろさなければなりませんでした。
アリマタヤのヨセフがピラトの許を訪れて、主イエスの遺体の引き取りを願いました。彼はサンヘドリンの議員でしたし、総督ピラトが判決を下し、罪ある者として死んだ者の遺体を引き取るのは勇気のいる事でした。アリマタヤのヨセフは神の国を待ち望んでいた人だと、マルコは記録しています。信仰をもって主イエスの遺体を引き取りました。
遺体は急いで上等の亜麻布で巻かれ、安息日が終わってから正式に埋葬をしようと考えられていました。
墓の入り口には大きな石が置かれていました。
マグダラのマリアと、ヨセの母マリアは主イエスの遺体が収められた墓の場所を確認しました。
安息日が終わると、朝早く婦人たちは主イエスのお墓に行きました。遺体に塗る香料と油を携えていました。
婦人たちの心は、悲しみと絶望に溢れていました。ガリラヤから主イエスに従い、神の国の福音を聞き、主イエスに救いの希望を置いていたからです。
それが、酷い十字架刑を受けて死なれた。主イエスを失った悲しみで心は一杯で、これからの自分たちは、何を頼って生きて行けばよいのか、わかりませんでした。
それでも、主イエスを正式に埋葬しなくてはと考えたのです。
墓の入り口には大きな石が置いてあります。「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」(マルコ16:3)と、道々話し合っていました。墓の入り口の石を転がすあてもなかったからです。
悲しみと絶望で心は一杯でした。
ところが、墓に着くと状況は変わるのです。心配していた大きな石はすでに取り除かれていました。
婦人たちが墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っていました。婦人たちは大変驚きました。恐怖に打たれたと訳せる言葉です。
この若者、神からの使いは、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」(マルコ16:6)と告げました。
「ナザレのイエス」とは、主イエスがガリラヤのナザレでお育ちになったので、主イエスを受け入れない人々や、この世では、そのように呼ばれていました。
婦人たちは主イエスを愛していましたが、墓に来たのは人としての主イエスを葬るためでした。
主イエスはメシアであり、神の子であって、人を罪から救うために来られたお方であることを、悟っていませんでした。
かつて主イエスは、弟子たちに三回、十字架の苦しみと復活を伝えていましたが、弟子たちも悟ることはできませんでした。
死人を葬る墓には主イエスはおられません。
天使は、さらに「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』(マルコ16:7)と、続けました。
ペトロと弟子たちに、主イエスの復活を伝えるように告げました。
弟子たちとペトロに告げるようにと、ペトロの名前が挙がっています。
ペトロは、大祭司の庭で主イエスが裁かれているときに、主イエスを激しく否定しました。恐ろしかったからです。
かつては、「あなたのためなら命を捨てます」(ヨハネ13:37)と誓ったペトロでした。
主イエスは、「鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言う」と、予告なさいました。
逮捕された主イエスの後にそっとついて行ったペトロは、大祭司の家の庭で素知らぬ顔をして焚火に当たっていました。
ペトロは三度、主イエスと一緒にいた者だと証言されたのですが、激しく否定しました。三回目に、まだ言い終わらないうちに、鶏が鳴きました。
主イエスは振り返ってペトロを見つめられました。
ペトロは外に出て激しく泣きました。
自分の人間的な弱さを思い知ったのです。
イスカリオテのユダの裏切りは、動かせません。しかし、ペトロもひどい裏切りをしてしまいました。
しかし、天使はわざわざペトロの名前を挙げて、主イエスの復活を伝えるようにと言いました。
天使は主イエスが先にガリラヤへ行かれたと言いました。「先に」とは、先立って、あるいは先頭に立ってという意味です。
復活された主イエスは先頭に立ってくださった。あなたがたも、生きておられる主イエスに、これからも続いて進むのだということです。
この出来事に遭遇した婦人たちは、どのように反応したのでしょうか。
「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」(マルコ16:8)と記されています。
婦人たちは、最初から恐れおののいていました。天使の言葉を聞いてもそれは変わりませんでした。主イエスの十字架の死、それは絶望以外の何ものでもありません。しかし、主イエスは復活されたのです。命の希望のメッセージが告げられました。しかし、恐れのあまり、信じることはできませんでした。
ペトロが主イエスを否定したように、婦人たちも復活の事実を受け入れることが出来なかったのです。
もし、主イエスが死んで葬られたままであれば、永遠の命の希望を持つ事はできません。
私たちも、「ナザレのイエス」を訪ねるようなことはないでしょうか。
主イエスが復活されたから、私たちも復活の希望をいつも持ち続ける事が出来るのです。
主イエスを信じる信仰は恐れでも絶望でもなく、希望の信仰です。
この世には、もうこれで終わり、もうどうしようもないと思われることがあります。
人間の「死」もそうです。しかし、死は終わりではありません。
希望なのです。復活の希望を持ち続ける事が出来るのです。
私たちは、生きている救い主を語り続けます。
もしこの方が復活されなかったら、伝道は空しく、信仰も無駄で、私たちはこの世でもっともみじめであり、嘘をついていることになります。しかしそうではありません。主イエスは甦られました。
初代教会時代、信徒たちは、「まことに主は蘇りたまえり」と、挨拶し合いました。主イエスの復活の信仰を告白することが挨拶だったのです。
やがて主イエスと、顔と顔を合わせてお会いできる時が来ます。
先に召されている懐かしい兄姉とも再開の望みがあるのです。
生きておられる主イエスが先頭に立って私たちを導いて下さることを覚えて、感謝し、祈り、伝道し、喜びに満たされて進みましょう。

今週のみことば
「驚くことはない。
 あなたがたは十字架につけられた
 ナザレのイエスを捜しているが、
 あの方は復活なさって、ここにはおられない。」
 マルコによる福音書16章6節




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