阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2025年5月4日
第1聖日礼拝
「土の器」
コリントの信徒への手紙U4章6-7節

 5月第1週の日曜日を迎え、父なる神を礼拝する恵みを感謝します。
私たちの信仰と生活の基盤は、まず父なる神に礼拝をささげることです。
きょうも親しく交わってくださる神に、賛美をささげましょう。
今日のテキストには、「土の器」という言葉が出てきます。
新約聖書の時代以前から、粘土や土で作られていた器が日常に使われていました。それは大変粗末な物で、すぐに割れたり、欠けてしまうようなものでした。
しかし、しばしばその粗末な容器の中に、大切な宝を入れておくことがありました。
パウロは自分自身のこと、また、土の器に宝物を入れておくということを思いながら、これらの事を記したのかもしれません。
コリントの信徒への手紙T、Uを記したのは使徒パウロです。
パウロは、復活の主にお会いしてから、人生が全く変わってしまった人でした。
かつては、教会と信者たちを、大変な勢いで迫害する人でした。
まだ若くサウロと呼ばれていたパウロは、ステファノの殺害に賛成していて、石打ちにする人々の上着を預かったほどでした。
それからも、激しく信者たちを迫害し、殉教させても当然だと思っていました。
「一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた。」(使徒8:3)とあります。
ある時、パウロはエルサレムからダマスコへ向かいました。
「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。」(使徒9:1,2)とあるように、パウロは、信者たちを迫害することが正しいことと思い込んでいたのです。
ところが、このようなパウロを主イエスは見い出して、御自身を現わされました。
復活のキリストにお会いして、パウロは生まれ変わりました。
ダマスコ途上でキリストの光に照らされて、彼は地に倒れ、キリストの声を聞きました。
「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」(使徒9:5)
目が見えなくなり、人に手を引かれて町に入ったパウロは、アナニアが来て祈ってくれた時に、目からうろこのようなものが落ちて見えるようになりました。
パウロは、自分が正しいと思ってしてきたことが、全く見当違いであり、強いと思っていた自分が弱く、間違いだらけの者であることをいやというほど知りました。
自分が尊い金や銀、宝石で造られた器ではなく、もろい土でできた欠けやすい器であると自覚できたのです。
しかし、その器の中には大変な宝が納められています。
「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」(Uコリント4:7)とあります。パウロだけではなく、私たち一人一人も土の器だとあります。
しかしその中には「宝」が納められています。その宝とは、「『闇から光が輝きでよ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」(Uコリント4:6)とあるように、主イエスがどのような人も救って下さるという、福音の喜びの光を納めていることなのです。
パウロは、主イエスと出会い、全く造り変えられて、迫害する者から宣教する者へとなりました。
ローマで殉教するまでキリストを宣べ伝えました。
人は、大変に繊細でもろい性質を持っています。体もしばしば弱り、病気になることもあります。
主イエスの十字架で罪を赦されているのに、しばしば御心ではないことをすることがあります。肉の弱さです。
晩年の、使徒ヨハネは、「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」(Tヨハネ2:1、2)と記しました。
これは、すでにキリストを信じている信者たちに宛てた手紙ですが、
あなたがたが罪を犯さないようにするため、たとえ罪をおかしても贖い主、キリストがおられるとあります。
主イエスが十字架ですべての罪を清めてくださったのだから、もう罪は犯さないというのではなく、心の深い所を聖霊によって探っていただくことは必要であり、大切なことです。
なぜなら、天の父と正しい関係にあるかどうかをきちんとしておかなくては、信仰は保てないからです。
悔い改めてキリストを心に信じた人が、もしキリストから離れてしまうとしたら、それは、日々神との関係を正しくもつことを疎かにして、世に引きずられてしまう結果なのです。
世には楽しそうなことがたくさんあります。誘惑もあります。自分がしたいことや、興味のあることもあります。人が人らしく生きることは良い事なのですが、それらの事の為に父なる神との関係が断たれてしまうなら、取り返しのつかない事です。
いつも真の神と正しい関係にあるだろうかと、祈り、悔い改め、確信することと、いつも執り成して下さる主イエスが共におられることを、忘れてはなりません。
真の神から遠く離れてしまっても、父は毎日戻ることを待っておられます。
父は放蕩の限りを尽くして破滅した息子の帰りを待っていました。
父の財産を分けてもらい、遠くの町へ行って好きなように生きた息子は、飢饉や全財産を失ったために、飢え、豚の世話をしなければならないくらい落ちぶれてしまいました。そこで、はっと我に返ったのです。
お父さんの所では雇人でさえも食事を十分にしている、家に帰ろう。息子と認められなくても、雇人の一人として受け入れてくれれば良いと思って、帰って行きました。
父は遠くから息子を認めて、指輪をはめ、靴を履かせ、上着を着せて、息子として受け入れました。盛大な宴会までして戻って来たことを喜びました。
この息子は大きな欠けのある土の器でした。兄息子は毎日まじめに働く人でしたが、赦すことができないという大きな欠けのある器でした。
それぞれが土の器であり、弱くもろい存在であるにもかかわらず、その中にはキリストの救いの宝、驚くべき光が納められています。
父なる神の御思いはどのようなものでしょうか。キリストの福音によって、誰もが救いに預かり、永遠の命をいただくことです。
救いは神の御業ですが、伝えるのは私たち人一人です。
伝える者がいなくては、救いの御業は起こりません。
土の器に過ぎない私たち一人一人を、主イエスは用いようとされています。
救いは主にある。主はまことの救い主。この方こそ道、真理、命であることを伝え続けましょう。

今週のみことば
「ところで、わたしたちは、
 このような宝を土の器に納めています。」
 コリントの信徒への手紙U4章6節


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