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阪神チャペルセンター
礼拝メッセージ |
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「罪を許して下さる方」
ルカによる福音書7章36-39節 |
6月に入りました。これから梅雨に入り、しばらくは蒸し暑い日も続くと思います。健康に気を付けながら、主の恵みの内を歩みましょう。
主イエスを食事に招待した人がいました。あるファリサイ派の人とありますが、40節にはシモンと名が記されています。
主イエスは、罪人として蔑まれているような人たちと食事をなさいましたが、ファリサイ派の人とも食事をなさいました。
シモンが主イエスを招待したのは、主イエスを受け入れていたのではなく、どのような「人」なのか見極めたかったのです。
多くの人に神の国を説いているが、本当に預言者なのかどうか知りたかったので、いわば試みたわけです。
預言者は、神の言葉を人に伝えるために遣わされた、神の人と認識されていました。
ファリサイ派のシモンは、主イエスをメシアとは思っていませんでした。
その食事の席に一人の女の人が入ってきました。主イエスとの食事の席に入って来るのは、咎められませんでした。
この婦人は高価な香油の壺を持ち、主イエスの後ろから足もとに近寄って、泣きながら涙で足を濡らして髪の毛で拭きました。そして主イエスの足に接吻して香油を塗ったのです。
シモンを始め同席していた人たちは、驚いたことでしょう。そして、この女性がどのような女性なのかも知っていました。
シモンは、主がこのような女性の行為を咎めないので、主は預言者ではないと判断しました。なぜなら、この女性は罪深い女性だったからです。
「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分るはずだ。罪深い女なのに」(ルカ7:39)と思ったのです。
この女性は、誰もが「罪の女」として知っているような人でした。
すると、主は、「シモン、あなたに言いたいことがある」(ルカ7:40)と言われました。主イエスはたとえを話されました。
「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」(ルカ7:41,42)
聖書にはよくデナリオンという通貨の単位が出てきます。一デナリオンは、一日の労働の賃金でした。
一人は500日分の賃金に値する金額を帳消しにしてもらい、一人は50日分の賃金に相当するお金を帳消しにしてもらったのです。
「二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」との問いに、シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えました。
主イエスは、「そのとおりだ」(ルカ7:43)と言われて、女性の方を御覧になりました。
ファリサイ派のシモンは、主イエスを食事に招きましたが、主イエスを大切な客としては迎えていませんでした。
なぜなら、主イエスを丁重にお迎えしていなかったからです。
「わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた」(ルカ7:44−46)。
シモンは、当然の礼儀をもってのお迎えをしませんでした。
道路を歩いてきて汚れた足は、その家の僕が洗いました。シモンはそのような指示をしませんでした。シモンは、挨拶と歓迎の接吻もしませんでした。頭に香油を塗ることもしませんでした。
シモンは主のたとえ話が自分の事とは気が付きませんでした。
自分が罪ある者としての自覚がなかったからです。
神の律法を守り、立派な行いをして、人々から尊敬される指導者だと思っていたからです。
一方、主の足元に涙を流し続けた女性は、自分が罪を犯していることが良く分かっており、苦しみ、何とかして赦されたかったのです。
主イエスの質問に、シモンは「帳消しにしてもらった借金が多い方が、赦してくれた金貸しを多く愛す」と答えました。
主は、「その通りだ」と言われました。
自分の罪の深さを知り、悲しみ、赦されたいと願う者は、赦されたなら、赦して下さった方を、より多く愛すのだと言われました。
私たちは、主イエスの十字架の贖いによって、恵みによって救われました。
私たちは何の代価も払わずに、主イエスの贖いによって永遠の命をいただきました。あまりにもその恵みが大きいので、恵みの中に座してしまい、真の神が尊く、聖なる方であることを忘れてしまうようなことはないでしょうか。
罪の自覚が無くなり、聖なる方のお姿を忘れてしまうなら、救われた意味がなくなります。多く赦されていることが分からなくなるのです。
イザヤ書6章には、イザヤが預言者として召された時のことが記されています。「ウジヤ王が死んだ年のことである。」(イザヤ6:1)とあります。ウジヤ王はユダ王国の王として52年間君臨しました。非常に優れた王であったことが記録されています。
ウジヤの死んだ年は、だいたいBC720頃ではないかといわれています。
その年にイザヤは預言者として召され、天の座におられる神の幻を見ました。それは栄光に満ち、セラフィムは「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」(イザヤ6:3)と賛美しました。
イザヤは自分が罪深い者、汚れている者であることを自覚し、「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は 王なる万軍の主を仰ぎ見た」(イザヤ6:5)と、恐れおののきました。
すると、セラフィムが祭壇から火ばさみでとって来た炭火を、イザヤの口に触れさせました。「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」(イザヤ6:7)と、宣言したのです。
預言者としての働きは罪の赦しから始まりました。
私たちを救って下さった父なる神は、愛の神です。しかし、尊く聖なる神であることをいつも覚えなくてはなりません。
悔い改め、十字架の血汐を求め続ける信仰が大切なのです。
「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。」(Tヨハネ1:7,8口語訳)。
「赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(ルカ7:47)
主はこの女性に「あなたの罪は赦された」(7:48)と宣言され、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(7:50)と言われました。「安心して行きなさい」とは、平安の中へと行きなさい」という意味です。
罪が赦されてほっとして出て行くだけではなく、これから祝福と平安の人生に生かされるのだということです。
罪が赦され、主イエスの祝福と平安、永遠の命に生かされていることをあらためて覚え、主イエスを愛し、人を愛し、聖なるお方を聖なる方として崇めましょう。
今週のみことば
「あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました。
御子には罪がありません。」
ヨハネの手紙T3章5節
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