阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2025年6月29日 
第5聖日礼拝 
「栄光のお姿」
マタイによる福音書17章1−8節

6月最後の日曜日を迎えました。早いもので2025年も半年過ぎました。この年の後半も主イエスがともにおられることを感謝します。
主イエスは、伝道を開始されると、町々村々に神の国を伝えていかれました。病人を癒され、神の業を現わされました。
主イエスは、弟子たちに「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」(マタイ16:13)と、お聞きになりました。弟子たちは、人々はバプテスマのヨハネだとか、預言者のエリヤだ、エレミヤだ、あるいは預言者の一人だと言っているとお答えしました。
すると、主は「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(マタイ16:15)とお聞きになりました。
ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16
)と答えました。
主イエスはペトロに「あなたは幸いだ、このことを示されたのは人ではなく天の父だ」と言われました。
この時から主イエスは御自分の十字架の苦難、死、三日目の復告を話されるようになりました。
主イエスがこのように十字架の苦難をお話になった時、ペトロはどのように反応したのでしょうか。
主イエスをわきへお連れして、諫めたのです。
「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(マタイ16:22)
主イエスは振り返り、ペトロに「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」(マタイ16:23)と叱責されました。
主イエスに従いたいのなら、自分を捨てて、生きるにも死ぬにもすべて、私に倣うようにと教えてくださいました。
ペトロは、「そんなことはあってはならない」と言いましたが、それは主イエスの十字架の苦難などあってはならないことと、考えたのです。
主イエスは全世界の罪を担われて十字架で死なれ、三日目に復活されたのです。今生きておられるから、祈りを聞き、救いを与えてくださるのです。十字架の贖いがなければ、救いはありませんでした。
イエスこそメシア、神の子と告白したペトロは、主イエスの十字架をあってはならない事と諫め、厳しく叱責されてしまいました。
そのようなことの後、聖書は6日の後と記しています。
主イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に登られました。一説によればヘルモン山と言われています。主イエスのお姿が突然変わりました。
「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」
(マタイ17:2)
モーセとエリヤが現れて主と語り合っていました。ペトロは口をはさんで、「主よ、わたしたちがここにいるのはすばらしいことです。お望みでしたら、わたしたちがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」(マタイ17:4)。
ペトロがここにいるのは良い事と言っているのは、ここにいることは楽しいことという意味です。
高い山で、主イエスとモーセとエリヤといつまでもいられたら、こんなに素晴らしいことはないと考えました。
ペトロがそのように話している間に、光り輝く雲が彼らを覆い、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け」(マタイ17:5)という御声が雲の中から聞こえました。
ペトロたちは恐ろしくなり、これを聞いてひれ伏しました。すると、主イエスは、「起きなさい。恐れることはない」と、手を触れてくださいました。彼らが顔を上げると、主イエスのほかにはもう誰もいませんでした。
大変不思議な出来事でした。
主イエスは弟子たちに御自分がメシア、救い主であることを教えておられます。ペトロは、「あなたこそメシア」と告白していましたが、さらに栄光のお姿に変貌され、預言者たちと語り合う姿を見せて、メシアであることを現わされたのです。
この方こそまことの救い主、信じる者を救い、永遠の命を与えてくださるお方です。
主イエスは御自分の事を、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)と言われました。
主イエスご自身が道であり、真理であり、命なのだと証しされ、主イエスを通らなければ、父の許に行くことはできないと教えられました。
主イエスを仰ぎ、信じ、従う事だけが勝利であると覚えましょう。
また、この出来事を通して、真の神と出会うということが示されています。ペトロは、十字架の道を諫めて厳しく叱られました。変貌の山では栄光の姿と、神の御声にただ恐れてひれ伏しました。
ここにいることは素晴らしいことと言ってしまったことなど、かなり混乱していたようです。
それもそのはずです。人が見ることができないような不思議な体験をしました。キリストの栄光のお姿、神の臨在の表われである、輝きを見たのです。
恐れてひれ伏すほかはありませんでした。
主イエスは、彼らに手を触れてくださいました。「起きなさい。恐れることはない」と声をかけてくださいました。
主イエスから、いつも直接教えを受けていた弟子たちでさえ、主イエスの語られることが理解できないようなところが多くありました。
主イエスはもどかしさを覚えておられたかもしれませんが、決してそれをお責めにはなりませんでした。
主イエスが彼らに本当に理解してほしかったのは、御自分が世の救いのために来られて」、十字架によって救いを成し遂げられるという事でした。ですから、彼らを連れて山に登り、栄光のお姿を見せてくださったのです。
ペトロは、これほどまでにして教えておられる主を、さらに拒むという失敗も重ねてしまいます。
大祭司の庭で裁かれている主イエスを、三度も否定するのです。
人間の弱さを持ち、このような失敗を重ねましたが、主イエスは見放すことはありませんでした。
私たちも、主イエスに従おうとしても、人間的な弱さの為に従う事が出来ないと思うことがあります。祈りが答えられて感謝していても、自分の思いや願いだけを優先するような勝手な所があります。
祈りの中にそのような自分を恥じて、顔を上げることができずに、臨在にただひれ伏すような経験もあるでしょう。
主イエスは、そのような弱さだけしか持ち合わせていないような者に近づかれます。
手を触れてくださいます。「起きなさい、恐れることはない」と御声をかけてくださいます。
私はあなたの弱さのため、罪のために十字架にかかったのだと言われるのです。あなたが落ち度のない義人であるなら、わたしの十字架はいらなかった。でも正しい人は誰一人としていないのだと言われるのです。
主イエスはいつも私たちと共におられます。私たちのすべてを御存じです。
私たちは、主イエスを仰ぎ、主イエスの御手にすがり、主イエスこそ神であることを告白しながら進みます。
私たちが生きているのは、この世の中です。高い山の上ではなく罪が蔓延しているこの世です。だからこそ、主イエスは弱い者であっても、主イエスにあって強くし、御自身の栄光の為に用いてくださるのです。
誰が主イエスを伝えるのでしょうか。主イエスを信じ救われた者です。
今も、救いを求めている人が大勢います。主イエスを伝える事が出来るのは、私たちなのです。
私たちの言葉と、生活が生きておられる救い主を現わす者であるようにと、さらに祈り続けて参りましょう。

今週のみことば
「イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。
起きなさい。恐れることはない。」
 マタイによる福音書17章7節



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