阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2025年7月6日 
第1聖日礼拝メッセージ
「受けるよりも幸いなのは」
使徒言行録20章35節

 暑い毎日ですが守られて今日も礼拝をささげられて感謝します。
御言葉に養われて、どのような時も魂が生かされていることを感謝します。
人には出会いがあります。どのような人と出会うかで人生が変わることがあります。
今までの歩みも、多くの出会いによって、進められてきたことを思い返す事が出来ます。
いちばん大切な出会いは、救い主との出会いではなかったかと思います。
もし、主イエスとの出会いがなかったら、今こうして共に礼拝することはなかったでしょう。
主イエスは、いつから私たちの事を知っておられたのでしょうか。
「あなたは、わたしの内臓を造り 母の胎内にわたしを組み立ててくださった・・・・。胎児であった わたしをあなたの目は見ておられた。
わたしの日々はあなたの書にすべて記されている。まだその一日も造られていないうちから。あなたの御計らいはわたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。」(詩篇139:13,16,17)。
母の胎内にいる時から知っておられる。それは天の父が造られたからだと詩編は唱っています。
また、エフェソでは、「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」(エフェソ1:4,5)と約束されています。
母の胎内で創造され、また、神の子にするために、イエス・キリストにあって、選んでくださったという約束です。
神の子とされたのは、神の愛によるものであり、聖別されるためであることを、心に覚えたいと思います。
それは、信仰を持ったのは3年前だから、その時に主イエスが覚えてくださったということではありません。
わたしたちがこの世に生を受ける以前、また、天地創造以前とは、なんと神秘的なことでしょうか。救われたことを感謝し、信仰の姿勢を新しくする決心が促される御言葉です。
パウロは主イエスと劇的な出会いをしました。
パウロの一生を全く変える出来事でした。
厳格なファリサイ人であり、迫害者であったパウロは、クリスチャンたちを迫害し、エルサレムへ連行するために、ダマスコへ向かいました。それは、大変に恐ろしく、抵抗する者は殺害しても構わないくらいの勢いでした。
この迫害者をも主イエスは知っておられました。すでに選びの器とされていたのです。
ダマスコ途上で復活の主にお会いして、パウロは打ち砕かれました。
天からの光に照らされて、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(使徒9:4)というお声を聞きました。
この方が主イエスだと知り、目が見えなくなったパウロはダマスコで三日間祈りました。アナニアという弟子が遣わされて来て、手を置いて祈られたパウロは、目が開かれて、たちどころに主イエスを伝える者に変えられたのです。
ファリサイ派の中でもエリートであったパウロですから、この出会いがなければ、学者として、宗教的指導者として地位を得、ある意味平穏に歩むことができたでしょう。
主イエスはアナニアに、パウロがどれほどの苦難の道を歩まなければならないかをお話になっています。
この時からパウロは福音を伝える者とされ、時には命を狙われながら、また激しい迫害の中を、宣教の為の使徒として用いられるようになったのです。
パウロは3回伝道旅行をしたという記録が、使徒言行録には記されています。2回目の伝道旅行では、福音が初めてマケドニア(ヨーロッパ)に伝えられました。
3回目の伝道旅行の帰途、パウロはエフェソの長老たちをミレトスへ呼び寄せました。
パウロはもう彼らに会うことはないことを告げ、困難が押し寄せてきても、キリストの血によって贖われた神の教会をしっかりと守るようにと励ましました。
神と恵みのことばに委ねて、しっかりと働き、弱い人々を助けていくようにと続けました。
また、主イエスの、「受けるよりは与える方が幸いである」という御言葉を思い出すようにと勧めました。
パウロの生涯は、主イエスに見いだされて、与える生涯に変えられました。
それは、主イエスの十字架の贖いを深く受け入れたからです。
主イエスが自分のために命を捨てて下さった。罪を赦される恵みを知り、永遠の命を喜ぶ者となったことを、心の奥深くに刻み込みました。
それは、神のはかり知れない愛を知る事でもありました。
主イエスを迫害するような者さえ、愛してくださり、罪を赦すばかりか、ご自分の御用に用いようとしてくださる、このような大きな恵みがあろうかと感謝しました。
多く赦された者は、多く愛する人になるのです。
神の愛に生きる人は、神の愛に満たされ、受けるよりは与える方が幸いであるという、真理を知る人となります。
人は、与えるよりは受ける方が幸いと思います。
しかし、私たちはいつも御言葉に立たなくてはなりません。祈ることをしない、御言葉を聞くことをしなければ、信仰は弱る一方です。
聖霊を悲しませてはいけないのです。
主イエスがどのようなお方なのかをいつも確認するならば、信頼と感謝に溢れるのです。
わたしたちの生涯を良い物で満たして下さる方。乏しい事なぞ決してないことを覚えていく時に、心はいつも満たされ、信仰による勇気と確信に満たされます。
自分には力がないと思っていても、いつも必要な力は与えられているのです。
主イエスを証しすることは、「与えること」の一つです。いつでも、どのような時にも、証しするチャンスはあります。
執り成しの祈りをすることも、「与える」ことの大切な一つです。
祈りは必ず聞かれるのです。
パウロはエフェソの長老たちと、ひざまずいて祈りました。これが最後の別れになると思うと、皆泣きました。
分かれは悲しいのですが、それぞれが主イエスの為に、これからもなすべきことを果たしていくのなら、「与える」という信仰の生き方ができるのです。
わたしたちの教会は、1955年7月に創立されました。多くの祈りと奉仕、また、財がささげられてここに主イエスの教会が建て上げられました。この土地は、宣教師であったジョンストン師の夫人、ハリエットさんが、お母様の遺産をささげて下さって、購入することができたのです。
信仰によって与える恵みを知らなければ、私たちの教会だけではなく、どこの教会も建て上げられません。宣教師、初期に働かれた教職、信徒、陰で祈ってくださった方々、これらの尊い信仰によって、建て上げられた教会です。
私たちも、「与える」恵みの信仰に生かされたいと願います。
与える所に祝福があるという真理を知るキリスト者でありたいと願います。
創立70周年の年、新たな信仰に生かされて、祝福の内を歩みましょう。

今週のみことば
「また、主イエス御自身が、受けるよりは与える方が幸いであると
言われた言葉を思い出すようにと、
わたしはいつも身をもって示してきました。」
 使徒言行録20章35節



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