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阪神チャペルセンター
礼拝メッセージ |
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「仕えるために来られた」
マタイによる福音書20章25-28節 |
8月第二週の主の日を迎えました。きょうも教会に集い、礼拝をささげられることを感謝します。
2020年4月から、コロナウイルスの影響で、教会での礼拝がささげられずに、YouTubeでの礼拝が始まりました。その後も2023年1月まで、繰り返しYouTubeでの礼拝が繰り返されました。
今はこのように、何事もなかったかのように集っていますが、また、
この酷暑の中でコロナウイルスの感染が増えてきています。他の感染症も増えているようですので、体調管理をしっかりとしたいと思います。
このところ、礼拝のYouTube配信も早い時間にできるようになりました。伝道にも用いられたら感謝と思います。また、礼拝出席が出来なかった時は、必ずYouTubeで、礼拝をささげましょう。
主イエスが3回目の受難の予告をなさいました。
主イエスは先頭にたってエルサレムへ向かわれました。そのお姿に弟子たちや従う者たちは驚き、恐れました。ただならないご様子だったのでしょう。
「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する」(マタイ20:18、19)。
これで三度主イエスは、御自分の十字架の贖いの死と復活を弟子たちに告知しました。しかし、彼らは恐れ驚いただけで、実は大切なメッセージについては何も分かりませんでした。
なぜなら、相変わらず、誰が一番偉いかなどと心の中で考えていたからです。
しかも、ゼベダイの子、ヤコブとヨハネの母が主イエスに自分の息子たちについてのお願いをしたのです。
彼女は主イエスにひれ伏して、自分の息子たちを主イエスが王座に着かれる時、その右と左に座らせてほしいと願いました。しかもそのようにすると、「おっしゃってください」、約束してくださいと、かなり強引な頼み方をしました。
つまり、あなたの次の位につかせてください、偉くしてくださいとお願いしたのです。
主イエスは彼らに、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分っていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」(マタイ20:22)と、お聞きになりました。
マルコによる福音書10章に記されている平行記事には、「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼(バプテスマ)を受けることができるか」(マルコ10:38)と、杯と洗礼(バプテスマ)というお言葉が記されています。
洗礼(バプテスマ)は、水で全身を浸し、水から上がります。それは、主イエスと共に死に、新しい命に復活したということを現わしています。
「わたしたちは洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ローマ6:4)
主イエスは、弟子たちと最後の食事をされた後、ゲッセマネへ行かれて、汗が血の滴りのようになるご様子で祈られました。
「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
(マタイ26:39)。
杯とは十字架の死であり、できればそれを避けたいと願いました。
しかし、主イエスは勝利され、「父の御心のように」と祈られたのです。この時、弟子たちに目を覚ましているようにと言われたのですが、
弟子たちは眠ってしまいました。
主イエスはゼベダイの子たちに、十字架の死と苦しみの杯と洗礼(バプテスマ)を受けられるのかとお聞きになりました。
二人は即座に「できます」と答えたのです。
主イエスは、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」(マタイ20:23)とお答えになりました。
ほかの10人の弟子たちは、この二人の兄弟の事で腹を立てました。
もし、このようなことに関心がなければ怒ることはなかったでしょう。
弟子たちの心の中には、ヤコブとヨハネと同じ気持ちがあったから
怒ったのです。
主イエスがこの世に遣わされたのには、目的がありました。すべての人の罪を引き受けられ、その身代わりとなって十字架に架り、死なれることです。
すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなりました。罪すらも分からない様になり、それぞれが、人が作り出した「神」とよばれるものを信じるようになりました。あるいは、神なる者はいないと言うようにもなりました。真の神を畏れることが無くなりました。罪とは真の神から離れていることです。的外れな生き方です。
その結果、人は滅びに向かう事になるのです。
滅びに向かう人たちの命を買い戻すためには、罪のない神の子の十字架での贖いという方法しかありませんでした。
そのために主イエスはこの世に遣わされて、十字架の贖いを完成され、三日目に復活されました。
今生きておられ、私たちを日々執り成してくださいます。
「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
(マタイ20:25−28)
「多くの人」という言葉は、「すべての人」という意味で使われる言葉です。
身代金とは、誰か悪い人に捕らえられてしまい、このままでは命が危うい。解放されるにはだれかが身代金を支払わなければならないというような場面で使われます。
罪に捕らわれているすべての人の為に、主イエスは十字架で血の代価を支払われました。
主イエスを救い主として信じ、受け入れた時に、その恵みの大きさに驚くのです。
「できます」と言ったゼベダイの子たちは、主イエスの杯を飲む事が出来たのでしょうか。
使徒言行録12章に、ヘロデ王の迫害が記されています。ヤコブの殉教が、「剣で殺した」という短い言葉で記されています。このヘロデ王は、主イエスが誕生した時のヘロデ王の孫にあたります。ヤコブを殉教させたことがユダヤ人に喜ばれたことを知り、ペトロを捕えてペトロをも殉教させようとしていました。
自分の人気のために教会を迫害し、使徒たちを殉教させるとは、残忍な心の王でした。
この世で王は偉い人と思われます。権力を振るいます。ヘロデは幸せだったでしょうか。そうは思えません。いつも心には恐れがあり、平安ではなかったでしょう。
ヤコブは弟子たちの中で最初に殉教しました。主イエスの「わたしの杯を飲む事ができるか」というお言葉を心に思い起こして、召されたのです。
仕えるために来て下さった主イエス、命を捨てて、すべての人の救いとなられた方、この方をいつも仰ぎ見、その姿勢に学び、御言葉をしっかりと聞き、祈り、信仰の歩みを続けて参りましょう。
「自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、
適格者として受け入れられるのです。」
コリントの信徒への手紙U10章18節
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