阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2025年8月24日 
第4聖日礼拝
「豊かな実を結ぶ」
ヨハネによる福音書15章5節

 8月第四週の聖日を迎えました。この暑さの中でも霊肉共に守られていることを感謝します。
きょうも心から天の父を崇め、礼拝をささげましょう。
礼拝をささげることは、なにより大切な奉仕です。奉仕にはいろいろな奉仕があります。会堂が整えられていること、礼拝に必要なものが用意されていることなど、多くの奉仕が考えられます。
それらのすべてが礼拝であり、礼拝の為であることを覚えたいと思います。
主は、私たちの奉仕を喜んでくださいます。なによりも、礼拝をささげる一人一人を喜び、受け入れてくださることを感謝します。
私たちはこの世に生を受けて、きょうまで生きてきました。さまざまな出会いがありましたが、主イエス・キリストとの出会いが、最大の喜びだと思います。
主イエスは御自分の命を捨てて、私たちの罪を贖って下さいました。計り知れない愛を覚えて、感謝と賛美をささげます。
私たちを御言葉によって養い、命に生かして下さることは恵みなのです。きょうも命の御言葉をいただきましょう。
主イエスは、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」(ヨハネ15:1)と、たとえで教えられました。
主イエスは、御自分が本当のぶどうの木であることと、天の父は農夫であると言われました。農夫という言葉は、「栽培人」という言葉です。ぶどうを栽培する人という意味です。
栽培人は当然豊かな実が実ることを思い、ぶどうの手入れをします。
主イエスは、「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」(ヨハネ15:2)と続けて教えておられます。
主イエスは天の父と、主イエス、そして人の関係を、「農夫」「ぶどうの木」「枝」というようにたとえておられます・
イスラエルでは、ぶどうは大昔から栽培されており、繁栄と祝福の象徴でした。
北王国のアハブという王がいました。彼はナボトという人のぶどう畑が欲しくて、ナボトに売ってくれるように頼みましたが、先祖から伝わる嗣業の土地なので売ることはできないと断られて、ふさぎ込んでしまいました。
王妃のイゼベルは、これ以上はないほどの悪い王妃でした。真の神に対する信仰も,畏れもまったくありませんでした。偶像礼拝があたりまえの王妃でした。
イゼベルはアハブの名で町の長老たちに偽証させ、ナボテを石打にしてしまいました。アハブに、ナボテは死んだので、欲しかったぶどう畑を手に入れるようにと唆したのです。
真の神はすべてを御存じでした。預言者エリヤを遣わし、アハブの家に対する裁きを伝えました。それを聞いたアハブは悔い改める様子を見せたので、神はアハブの時代には裁かれないことを約束されたのです。
アハブもイゼベルも真の神を知らなかったのでしょうか。そのようなことはありません。神は預言者を遣わして御心を伝えていましたが、偶像礼拝をやめることはありませんでした。高慢な生き方が続きました。
やがてアハブは戦死し、イゼベルも恐ろしい最期を迎えることになりました。
真の神を知りながら、従うことをしない者は、神に裁かれるのではなく、自分の選択した思いと行いによって、自分に裁きを招くことがよくわかる出来事です。
「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」(ヨハネ15:2)。
実を結ばないと取り除かれてしまうと、恐れを覚えてしまうかもしれません。
イスラエルの野生のぶどうは地面に這うように枝が伸びています。
「取り除く」という言葉の意味には、天の父はその枝を「持ち上げる、地面から起こす、支える」という意味があります。実がなるようにするということです。
一方、実を結ぶ枝はますます豊かに実るように、手入れをされるということで、両方とも天の父の愛と恵み、忍耐が約束されているのです。
主イエスは、「わたしの話した言葉によって、あなたがたはすでに清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」(ヨハネ15:3,4)。
主イエスは、あなたがたはすでに清くされていると、約束されています。これは、もう手入れがされているということです。
主が弟子たちに約束されているように、私たちも主イエスの語られる御言葉によって、すでに清められていることを覚えましょう。
主イエスは、私たちにも「わたしもあなたがたにつながっている」と言われました。わたしの内に住みなさい、わたしの内に生きなさいということです。
主イエスが私たちに与えてくださった最良のものはなんでしょうか。その命の代価によって与えられた永遠の命です。私たちはその命に生かされているのです。
地上にありながら、天の国の民であり、数えきれない恵みによって生かされています。
御言葉をいただくこと、祈る事、祈りが聞かれる事、賛美すること、礼拝できること、愛し合う事、伝道する事、すべてがすばらしい恵みであり、祝福です。
私たちが、その恵みを心にしっかりと覚えることがなければ、主イエスにつながっているとは言えないのです。主イエスの内に生きるという応答をしなければ、主イエスにつながることにはなりません。
主イエスを信じることは、生活の全てです。一日24時間、起きているときも寝ているときも、どこにいても主イエスが内におられることをしっかりと意識する、応答していくこと、それが信じるということです。
時には、主イエスに従うことを覚えながらも、肉の思いがやってくることがあります。
真の神を知りながら、自分の肉の思いを貫いたアハブの愚かさの誘惑です。しかし、主イエスは「わたしもあなたがたにつながっている」(ヨハネ15:4)と約束しておられます。主イエスはしっかりとつながっておられるのです。地上での歩みが終わるその時まで、天に移されても、それは変わりません。
「しかし、愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下(もと)に祈りなさい。神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いてくださる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。」(ユダ:20)。
このように、試練の中でも、主は御言葉によって支え、励ましておられます。この測り知れない愛と恵み、そして永遠の命を伝えていくことこそ、天の父への応答であることを覚えたいと思います。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたには何もできないからである」(ヨハネ15:5)
永遠の命というかけがえのない実を豊かに実らせ、福音の実を豊かに実らせていく人生は、主イエスの命とつながり、そこから流れる聖霊によって進められます。
豊かに実が実るなら、栽培人の父なる神は嬉しいのです。まことのぶどうの木である主イエスも嬉しいのです。
そして私たち自身も、それぞれが信仰の祝福をいただく人生は嬉しいのです。主イエスの命を喜びとして、実り多い幸いな信仰をしっかりと持ち続け、歩みましょう。


今週のみことば
「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。
既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。
こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。」
ヨハネによる福音書4章35節


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