阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2025年8月31日 
第5聖日礼拝
「真理はあなたがたを自由にする」
ヨハネによる福音書8章31-32節

 8月も今日で終わります。そろそろ秋の気配を感じても良いころですが、まだまだ暑さは続くようです。体調に気を付けながら過ごしたいと思います。
いつも主イエスは御言葉を下さいます。御言葉には命があります。
私たちの魂を生き返らせ、正しい道を示してくださいます。主を見上げ、御言葉を待ち望みましょう。
主イエスは仮庵の祭りにエルサレムへと向かわれ、神殿で多くの事を教えておられました。
すでに祭司長やファリサイ派たちは、主エスを捕える機会を探っていました。下役たちを逮捕に向かわせましたが、捕らえることはできませんでした。以前、主を訪ねたファリサイ派のニコデモは、主イエスの逮捕に反対しましたが、一蹴されています。
この時、主イエスの教えを聞いたユダヤ人たちは、主を信じました。「多くの人々がイエスを信じた」と、ヨハネによる福音書8章30節には記されています。
この時信じた人々との関係は、どうだったでしょうか。この人々が弟子になったというわけではなく、ヨハネ8章を読むと、その関係がねじれていき、最後には主イエスに石を投げつけようとしています。
なぜ、イエスを信じた人たちがそのようになるのでしょうか。
主イエスは、「わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」(ヨハネ8:46,47)と言われました。
主イエスが教えておられるのは、主イエスの言葉にとどまるということです。
私たちの時間や生活は、すぐに過去になります。時間はどんどん流れていきます。以前御言葉を聞いた、以前信じたということに止まっていることはできません。今、新しい心で御言葉を受け入れているか、今、主イエスを救い主として信じているかなのです。
私たちが、主イエスの御言葉を聞き、読んでも、心に響なかったり、受け入れられない様に感じたら、どうするのでしょうか。
自分がいつしか恵みに慣れてしまい、自分中心になっていることを悟れる人は幸いです。そのような霊的状態に危機を覚えて祈れる人は、幸いです。ありのままの自分を主イエスに明け渡して悔い改められる人は、幸いです。
そうでないと、どんどん自分中心になって行き、人を裁き、主イエスにさえ背くようになります。サタンの思う壺です。
主イエスを信じた者は、主イエスの命で生かされています。この主イエスの新しい命につながっていなければ、もはや生きることはできません。まことのぶどうの木と、枝の関係です。
「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(ヨハネ15:4、5)。
主イエスにとどまる、つながるというのは、主イエスの愛にとどまり、主イエスにしっかりとつながり、いつも主イエスの命に生きるということです。
残念なことに多くのユダヤ人は、主の教えを聞いて、この人はメシアであると信じたのですが、信じ続け、従うことはしませんでした。
主イエスは、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8:31、32)と教えられました。

それを聞いたユダヤ人たちは不安と不満を覚えました。
自分たちはアブラハムの子孫であり、人の奴隷になったことはないと、心に誇りがあったからです。
しかし、実際にはエジプトで苦役を課せられ、出エジプトの歴史がありました。仮庵の祭りは、解放の記念と喜びの祭りでした。
また、その後アッシリヤやバビロンに国が滅ぼされ,捕囚ということもあったのです。この主イエスの時代も、ローマ帝国の属国として苦しまなければなりませんでした。そのような背景があっても、自分たちは奴隷ではない、隷属などしていないという誇りだけがありました。
そのような背景がありましたが、主イエスが本当に教えたかったことは、34節のお言葉にあります。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」
さまざまな束縛があり、自由のない奴隷であっても、魂が自由ならそれは幸いなことです。しかし、魂が罪に捕らわれ、支配されていることは人にとって最悪と言えます。
人は罪の力に支配されている奴隷だと、指摘されています。
罪から解放されて自由なら、罪は犯さないはずです。しかし実際には、罪がないとはいえません。罪の自覚がないことが大きな問題です。
ルカによる福音書に、ファリサイ派の人と、徴税人の祈りのたとえが記されています。
ファリサイ派は自分は正しい人だとうぬぼれていました。他人を見下すような人でした。もう一人は徴税人でした。この二人が祈るために神殿にやって来ました。
ファリサイ派は、自分がいかに正しい人間であるかを主張しました。
「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」このように心の中で祈りました。自分を誇っていたのです。
一方、「徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください』」。
罪が赦され、義とされて帰ったのは、徴税人でした。地位も名誉もある指導者であるファリサイ派は、高慢で、何が罪であるかもわかりませんでした。自分の行いを誇るだけだったのです。徴税人は、自分の罪を悲しみ、赦しを願いました。ここに大きな差が生まれました。
主イエスは「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(ルカ18:14)と教えてくださいました。
主イエスを信じながらも、主イエスに背を向けたユダヤ人の心にも、高慢な罪がありました。
大切なことは、自分の罪深さを知り、主イエスの十字架の赦しと愛にすがることです。
「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」(ヨハネ8:34―36)そのように希望が語られています。
奴隷はいつか主人の家から別の家に売られていくことがあります。しかし、子は家族ですからいつまでも家にいます。主イエスは父に愛されている神の子です。その神の子、メシアは地上に遣わされて、十字架の贖いを成し遂げて、神の愛をあらわされました。信じる者が罪の奴隷から義の奴隷に変えられるためです。真理はあなたがたを自由にすると約束された主イエスは、救い主です。真理とはイエス・キリストご自身です。
自分にとって痛い思いがするような御言葉であっても、へりくだって良く聞き、その御言葉にしっかりととどまるなら、主イエスは私たちを神の子としての自由をお与えになるのです。
「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです」(ローマ8:15)というすばらしい約束があります。
私たちは神の子とされました。罪から解放されて自由となっています。この自由を神の栄光の為に用いることができるように、祈りつつ主イエスと共に進んで参りましょう。

今週のみことば
「わたしの言葉にとどまるならば、
あなたたちは本当にわたしの弟子である。
あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
 ヨハネによる福音書8章31-32節



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