阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2025年9月7日 
第1聖日礼拝
「永遠の命にいたる水」
ヨハネによる福音書4章13-15節

 主イエスの愛を感謝します。きょうも御手に守られて、礼拝の恵みにあずかれました。心を開き、主を仰ぎましょう。
暦の上ではとっくに秋になっているのですが、毎日暑さを覚えています。日中の外出は控えたいほどの暑さです。もしこの暑さの中で、水が手に入らなかったら、大変なことになります。命を支える事が出来ないからです。
主イエスは本当に大切な、命に至る水について教えてくださいました。
主イエスは、いつも町々村々を訪ねて福音を伝えました。ユダヤでもサマリヤでも神の国を伝えられました。
主イエスはユダヤからガリラヤへ行こうとされていました。当時のユダヤ人たちは、サマリヤ人を混血の民であり、軽蔑の対象としていたので、決して交わることはありませんでした。ユダヤからガリラヤへ旅をするなら、サマリヤを通れば距離が短くなります。しかし、当時の人たちは、わざわざヨルダン川を越えて大きく迂回して、旅をするほどでした。
ヨハネ4章4節に、「しかし、サマリヤをとおらなければならなかった」とあります。それは、主イエスには、どうしてもサマリヤを通る必要があったということです。
サマリヤへの伝道、そして、たった一人の婦人との出会いのために、サマリヤを通られました。
炎天下の徒歩の旅は過酷です。主イエスはシカルという町の井戸のそばに座っておられました。旅の疲れを覚えておられたのです。時は昼の
12時頃でした。
普通、水は、朝早くその日の必要のために井戸に汲みにいきます。
昔は家から井戸に水を汲みに来て、家の水がめに満たさなければなりません。重労働ですが、婦人たちの仕事であったようです。
井戸のそばで主イエスが休んでいると、一人の婦人が水を汲みにやって来ました。この時間に水汲みをするのは何かわけがあるのでしょう。
主イエスはこの婦人に、「水を飲ませてください」と頼みました。ユダヤ人がサマリヤ人に話しかけることはありません。しかも女性に話しかけることは決してありませんでした。
ですから、この婦人は「ユダヤ人のあなたがサマリヤの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」(ヨハネ4:9)と聞き返しました。本当に思いがけない事だったのです。
主イエスは、「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことだろう」(ヨハネ4:10)と話されました。さらに、「この水を飲む者はだれでもまた渇く」(ヨハネ4:13)とも言われました。
人には、霊的な渇きがあります。心の渇きを覚えると、それを満たすものはないだろうかと、いろいろと求め続けます。
この世の中には、楽しそうなことも、興味を満たすものもたくさんあります。心の満たしを人に求める事もあります。しかし、何ものをもっても、魂の渇きを満たすことはできません。
「渇く」という言葉は、単に飢え渇くというのではなく、「次から次に一生懸命追い続けていく、求め続けていく」という意味があります。
求めても得られない、さらに求めていくということの連続をあらわしています。
この婦人は主イエスが言われているのは、井戸の水のことだと思って聞いていたので、自分が井戸に水を汲みに来なくてよいように、「その水をください」とお願いしました。
この女性は、過去に5人の夫がいましたが、離婚して今はべつの男性と暮らしていました。心の渇きを埋めるための、人生の選択だったのでしょう。しかし、人からどのような目で見られているのか、それを思い、人目を避けて井戸にやってきたのでしょう。真に幸せではありませんでした。
この女性だけではなく、真の神を知らない人々は、この世のものを得て満足したいと願います。しかし、世のものによっては、真の満足は得られません。なぜなら、人は真の神に創造された霊的な存在だからです。
この女性は、自分の生活について触れられて、戸惑いました。そして、主イエスに礼拝の場所について話し始めました。
サマリヤ人はゲリジム山で礼拝をするが、ユダヤ人はエルサレムで礼拝をしていることに言及しました。
主イエスは、どこで礼拝するかではなく、「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る、今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハネ4:23,24)と、場所ではなく、霊と真理によって礼拝することを示されました。
主イエスは御自身がメシアであり、永遠の命に至る水を与えてくださる方であることを証しされました。
「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4:14)と約束されたのです。
サマリヤの婦人は、メシアが来られることは信じていました。しかしいつ来られるのかはわかりませんでした。メシアが来られれば、自分たちに真理を示してくださる事を信じていました。
そのことを主イエスに告げると、主は「あなたと話をしているこのわたしである」(ヨハネ4:26)と、御自身を示されました。
主イエスを信じる者の心の奥には、命の水が湧き上がり、泉となって永遠の命を喜ぶことができるという、すばらしい真理を受け入れることが出来ました。
主イエスに出会い、主イエスを信じた人は造り変えられます。
人目を避けて真昼に水を汲みに来ていた婦人は、町の人々に主イエスが来られたことを知らせました。
大切な水がめを置いたまま町に行きました。
魂を満たして下さる命の水を人々に伝えたのです。このとき、この婦人の魂には、新しい命と喜びが与えられたのです。霊的な満たしを受けたのです。もう人の目も気になりませんでした。
この婦人の話を聞いて、町の人々も主イエスの許にやってきました。町の人々も主イエスを信じました。
主イエスは二日間そこに滞在されて、御言葉を語られました。さらに多くの人々が救い主を信じました。
主イエスがどうしてもサマリヤを通る必要を覚えておられたのは、人々の魂が満たされ、救いを受けるためでした。
「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」(ヨハネ4:14)という御言葉の意味は、「これからは、ほかの物を求める事はない」という意味です。霊的な飢え渇きは、世の何ものでも満たすことはできません。また、真の救いはありません。
主イエスを救い主として信じている私たちは、主イエスの満たしをいつもいただいています。いつも聖なる御霊に満たされ、潤されています。泉は湧き上がるのです。枯れることはありません。
主イエスは十字架で命を捨てられて、私たちを救って下さいました。
新しい命に生きる私たちは、聖霊に満たされ続けます。
私たちの霊の目を開き、神の御言葉を悟らせてくださいます。神の愛の内を歩み続ける事が、喜びであることを日々覚えることができます。
サマリヤの婦人は、大切な水がめを置いたまま、人々に主イエスが来られたことを知らせに行きました。もし水がめを無くしてしまったら、困ったことになるのですが、そのようなことはもう構いませんでした。
たしかにその心は造り変えられたのです。
主イエスはきょうもこれからも、私たちに親しく語られ、命に満たし、永遠の喜びを与え続けてくださいます。
「この方こそ救い主です」という言葉を待っている人々が必ずいます。
命の水に満たされ、命の言葉を伝えていきましょう。


今週のみことば
「渇いている人はだれでも、
わたしのところに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、
その人の内から生きた水が川となって
流れ出るようになる。」
 ヨハネによる福音書7章38節



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