 |
阪神チャペルセンター
礼拝メッセージ |
 |
「永遠の希望」
コリントの信徒への手紙T 15章57-58節
|
今朝は、一年に一度、先に召された兄姉を記念する礼拝の時を持っています。記念するということは、いつまでも忘れないということです。
もし、私たちが忘れてしまうと、記念することもなくなります。
お一人お一人の信仰の姿勢を思い出しながら、真の神を見上げ、礼拝をささげて参りましょう。
今年はいつになく暑い夏でした。地球温暖化の影響のため、毎年気候が変化してきていることは誰しもが実感しています。
線状降水帯ということばも毎日のように流れています。大雨の被害が各地で報道されています。
気候の変化だけではなく、個人的な問題を抱えて、一体これから先どのようになるのだろうかと、不安を覚える人々も多いでしょう。
私たちは、いつ何があるのか分からないようなところに生きていることは確かです。
この世に絶対安心なことはありません。それはだれしもが心のどこかで感じていることなのです。
確かなものは何かないだろうかと探しますが、なかなか見出せません。何が自分にとって得となるかという基準で考えてしまうからです。
この世で自分が何かを見出して、満足を得るならそれはそれで幸いだと考えられます。しかし、それがいつまでも続くのだろうかと思われます。
聖書に、放蕩息子のたとえと呼ばれている有名な箇所があります。
主イエスが教えておられる話です。
ある人に二人の息子がいました。この人は裕福な人でした。弟息子がお父さんに、財産を分けて欲しいと願いました。本当ならお父さんが亡くなってから受け継ぐ財産でしたが、弟息子は今欲しかったのです。
数日の後、財産をお金に変えて息子は家を出て遠い国へ行きました。
そこで好き勝手な生活をして、楽しんだのですが、無駄遣いをしてあっという間にすべてが無くなりました。間の悪いことに大飢饉が襲っていました。
見知らぬ町で一文無しになり、しかも飢饉の中で生きることはできません。やっとみつけた仕事は、畑での豚の世話でした。
ユダヤ人は、今でも豚は汚れた動物と規定されているので、食べません。厳しい戒律を守る人たちは、豚の油が入っている食物は一切食べません。触れることもしません。
考えられないような落ちぶれ方ですが、それでも空腹で、豚の餌のいなご豆を食べたいと思うほどでした。
そこで彼は我に返りました。父の家に帰ろうと思ったのです。
「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」(ルカ15:18)このように言おうと決心しました。
命にかかわるような状況に陥って、やっと自分の罪の深さに気が付きました。そして、生きる道の方角を変える事が出来ました。
自分勝手な方角から、正しい方角へと変えたのです。
滅びの道から命の道への方向転換をすることを、悔い改めといいます。
悔い改めとは、たんにごめんなさいと言うことではなく、生き方を正しい向きにするという事なのです。
彼は向きを変えて遠い道をお父さんの所に向かいました。
父親はどうしていたのでしょうか。あんな勝手な息子は息子ではないと怒って、見放したのでしょうか。そうではありませんでした。
まだ遠くにいる息子を認めて、走り寄りました。かわいそうに思い、首を抱いて接吻しました。「良く帰って来た」という、うれしい気持ちの表われです。
息子は道々考えて来たお詫びのことばを言いました。父はそのことばの返事ではなく、雇人に指示を与えました。
「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」(ルカ15:22)
そして、お祝いの宴会が始まりました。
人はこの世での喜びや、楽しみを見つけたいと願います。それは自分勝手につながることがあります。
主イエスの教えられたこのたとえには、大切な真理があります。
人の勝手な生き方と、それに対する父なる神の愛の姿です。お父さんの心には、いなくなった息子への愛が無くなりませんでした。待ち続けていたのです。
父なる神は、御自分のもとを離れている「わが子」を待ち続けておられます。あの父が息子に晴れ着を着せ、指輪をはめさせ、履物を履かせたのは、「息子」と認め、受け入れたしるしです。
兄息子は父が勝手な弟を赦し、宴会をしているのを苦々しく思い苦情を言いました。しかし父は「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」(ルカ15:31,32)と執り成しました。
私たちはこのたとえ話で、はかり知れない神の愛を知ります。罪深く自分勝手で、真の神から離れている者を、待ち続けておられる神。一人一人を愛してくださるお方がおられるのです。
人はこの世に生を受け、この世で生き、やがてこの世を去ります。
詩編には「われらの年の尽きるのは、ひと息のようです」(詩篇90:9口語)とあります。瞬きをするほどの間、あっという間に時が移り行くのです。
この世に生を受けたなら、失うことのない大切な命に生かされたいと願います。
キリストが与えてくださるまことの命です。方向を変えて、天の父のもとに帰るようにと教えておられるのです。
人が真の神、天の父から離れている状態を「迷子」のような状態と考えられます。あの弟息子が遠くへ行ってしまった状態です。
父のもとに帰れるようにと、イエス・キリストは御自身を現わしてくださいました。
だれでもキリストを信じる者がイエスの命、永遠の命を得られるようにと、十字架で死なれ、罪の贖いをされて、三日目に復活されました。
その命こそ、確実な永遠の命です。もう、死は勝利することはできません。なぜなら、キリストが復活されたように、信じる者も同じ命に生かされているからです。「朽ちるべきものが朽ちないものを着、死ぬべきものが死なないものを着る」(Tコリント15:43)のです。
私たちの体がキリストの栄光の体に似せられることが約束されました。この世には確かなもの、永遠のものはありません。キリストとその御言葉だけが永遠であり、確実なものです。
キリストを信じる者は永遠の命に生かされます。天の希望をもって生きる事が出来ます。それは勝利です。復活の命は勝利なのです。
天の希望をもって励む事が出来ます。苦しみの中にあろうとも、この世の希望が見えなくても、キリストは勝利であり、信じる私たちも勝利です。
「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」(Tコリント15:58)
主イエスが復活されたように、私たちも復活の命が約束されました。
これこそが大きな希望であり、生きる勝利の力です。
主イエスを信じ、その命に結ばれ、主の業に励む生き方は、生き生きとした喜びの人生です。
「私は道、真理、命」と宣言されたイエスこそ救い主であることを信じ、従い続ける、実り多い人生を歩み続けましょう。
今週のみことば
「こうしてわたしたちは、 キリストの恵みによって義とされ、
希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」
テトスへの手紙3章7節
|
|