阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2025年9月28日
第4聖日礼拝
「弱い者でも」
マルコによる福音書14章51-52節

 先週は、召天者合同記念礼拝、午後の墓前祭をささげ、大変幸いな時を持つ事が出来ました。
私たちは、この世においても天においても、賛美をささげつつ生かされていることを感謝します。
私たち一人一人の罪を担われ、十字架に架かってくださった主イエスを崇めます。主の復活を賛美します。
主イエスは弟子たちと、最後の食事をなさいました。その席上パンを取って賛美の祈りをささげ、それを裂いて弟子たちにお与えになりました。「取りなさい。これはわたしの体である」。
また、杯を取られて感謝の祈りをささげて、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」と言われました。主イエスの十字架の死と流された血潮によって、信じる者の罪がすべて許されることを教えられました。
私たちは、主イエスを信じて、主イエスがお定めになった聖餐を守っています。
マルコによる福音書は、簡潔に記されていることが特徴の福音書です。最後の食事、ゲッセマネでの祈り、主イエスの逮捕と、緊迫の場面が記されています。
イスカリオテのユダは、祭司長たちに銀貨30枚で、主イエスを売り渡していました。イスカリオテのユダは、「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」(マタイ26:14)と、金銭を要求しました。
ユダは、主イエスの逮捕の機会をねらっていました。
食事の後、主イエスと弟子たちは賛美をうたってからオリーブ山へ出かけました。
主はゲッセマネで祈られました。弟子たちに目を覚ましているようにと言われましたが、弟子たちは眠ってしまいました。主イエスが死ぬような思いで祈られていても、弟子たちはどうしても眠ってしまうような弱さを持っていたのです。主イエスは祈りの中に勝利されて、十字架への決心を新たにされました。
直ぐに主を逮捕するために祭司長、律法学者、長老たちが群衆と共にやって来ました。
夜なので主イエスの顔がわかりませんでした。ユダは、わたしが接吻する人がそれだと指図していました。
接吻は、親しみや愛をあらわす行為です。それが裏切りの合図になっていました。
主イエスは、「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕えなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである」(マルコ14:49)と言われました。
主イエスの逮捕、十字架の贖いは、聖書、すなわち旧約聖書の成就だと言われたのです。
旧約聖書は、やがてメシヤが来られて、救いを完成されることを預言しました。
メシヤ預言は多くありますが、イザヤ書53章は特に有名です。
「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」
(イザヤ53:3−5)
人の罪を背負われて、十字架で死なれるメシヤの姿がうたわれています。人間は、罪の性質を持っています。真の神を信じようとせずに、自己中心による欲によって生きようとするのです。
罪の赦しを得るためには、罪のない方が十字架で命を捨てて贖うよりほかの方法はありません。
「彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。」(イザヤ53:12)
まさにメシヤの十字架の贖いを預言しています。
ペトロも、「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」(Tペトロ2:22―25)とイザヤ書を引用して救いを記しました。
主イエスがゲッセマネで逮捕されると、弟子たちは皆主イエスを見捨てて逃げて行きました。恐ろしかったのです。
しかし、ペトロが大祭司の庭までついて行ったのは有名です。庭の中に入り、何食わぬ顔で火にあたっていました。その後、3回主イエスを否定します。
マルコによる福音書には、ひとりの若者の姿が記されています。
主イエスの食事の席には12弟子がいました。彼は12弟子ではないので食事の席にはいませんでした。
ペトロと同様に、主イエスがどうなるのか知りたかったのでしょう。
しかし、どういうわけか亜麻布をまとっただけで着いてきていました。
文字通り体に巻き付けていたのです。
亜麻布は祭司の衣服に使用される布でした。また、一般にも使用され、死者の葬りにも使用される布でした。
この若者が纏っていたのは寝具だったのかもしれません。
自分が捕らえられそうになると、亜麻布を捨てて逃げたのです。
これは、マルコによる福音書だけに記されています。
聖書には、この若者の名前は記されていませんが、この福音書を記したマルコではないかと考えられています。
使徒言行録12章には、「マルコと呼ばれていたヨハネ」とあります。
エルサレムのマルコの母の家は家の教会であり、多くの信者が集まり、祈る場となっていました。
マルコはペンテコステ以後、パウロの第一回伝道旅行にバルナバと共に同行しました。ところが途中で自分だけ引き返してしまい、パウロからは評価されることはありませんでした。次の伝道旅行に出かける時、バルナバはマルコを連れて行きたかったのですが、パウロは反対でした。二人の間で論争が起こり、パウロはシラスを選び、バルナバはマルコを連れて別々に旅立つことになりました。
マルコはペトロの働きを助けるようになり、ペトロの通訳をするという働きもしました。
パウロの最晩年の手紙には、マルコの名前もあって、「ルカだけがわたしのところにいます。マルコを連れて来てください。彼はわたしの務めをよく助けてくれるからです。」(Uテモテ4:11)とあって、マルコに会いたがっています。
主イエスが逮捕される時、亜麻布を捨てて逃げ、伝道旅行では最後まで働くこともできずに、失敗が多かったような若者は、やがて多くの福音の働きに用いられるようになりました。マルコによる福音書は読み継がれていきます。
人は弱く、主イエスに従いきれないような失敗もあります。しかし、主イエスにしっかりと結ばれているなら、失敗も希望に変えられます。
私たちの弱さを知っておられるのは主イエスです。
もし、過ちや失敗があったら、主イエスの前にひざまずき祈ればよいのです。十字架を仰ぎ、救いの確信と喜びに満たされるなら、立ち上がって、賛美しつつ主の為に進めるのです。私たちも主にあって力を与えられて、主のために用いられることを感謝します。

今週のみことば
「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。
死んだ方、否、むしろ、復活させられた方である
キリスト・イエスが、神の右に座っていて、
わたしたちのために執り成してくださるのです。」
 ローマの信徒への手紙8章34節


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