阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2025年10月12日
第2聖日礼拝
「恵みによって」
マタイによる福音書5章41-45節

 日々主に守られて過ごせる幸いを感謝します。神の御言葉によって魂が養われ、命に満たされていることを覚えます。
神の御言葉は命の糧です。心を開き受け入れ、従いましょう。
先週に引き続き、マタイによる福音書の山上の説教の中から、御心を伺いたいと思います。
主イエスの時代は、ユダヤはローマ帝国の属国として支配されていました。政治的には規制がありましたが、宗教的にはユダヤの信仰が認められていました。しかし、ローマの支配は、ユダヤの人々の心に圧迫感を与えるものでした。
「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。」(マタイ5:41)とあります。一ミリオンは約1.5Kmです。
だれかがとありますが、ユダヤ人同士の事ではありません。ローマの軍隊や兵士は、ユダヤ人に強制的に食物や力を提供させることができました。荷物を持たせて、一マイル行く事を命じる事が出来たのです。道を歩いていると、突然そのようなことが起こりました。
ドロローサで主イエスの十字架を、キレネ人シモンが無理に担がされたという記事があります。この時シモンは、犯罪人の十字架を、なぜ自分が担がされて、処刑場まで行かなければならないのかという屈辱感があったと思います。ローマの権力によるもので、拒絶はできませんでした。
42節では、求める者には与えること、借りようとする者には背を向けるなと教えています。
敵を愛し、自分を迫害する者の為に祈れとも教えておられます。
これらの教えは、とても難しいように思われます。
自分に目を向けていると、とても自分にはできない様に思われます。
しかし、私たちは目と心を天の父に向ける事が出来ます。
天の父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるお方です。
私たちは毎日食物を摂ることで生きています。一日三食いただく事が出来るのは恵みです。
食物、特に穀物や野菜は、太陽と雨の恵みがないと収穫できません。
パレスチナはもともと雨が少ないところですが、大麦の種まきの前と、収穫の前には大雨が降りました。この地方では秋に種を蒔き、春に収穫をします。秋の雨と春の雨、また、前の雨と後の雨と呼ばれます。
種蒔きの前に雨が降って土地を潤し、耕すことができる。また、収穫の前にも雨が降って、麦がよく育つのです。この雨がないと収穫は期待できませんでしたから、人々は雨を喜びました。
このように、天の父は悪い者にも善い者にも雨も太陽も与えてくださるのです。
天の父なる神を信じていても、信じていなくても、同じ恵みを下さいます。
誰にでも分け隔てなくくださる恵みですが、多くの人はまったく気が付かずに、当たり前のことと思っています。
天の父はこの世を創造された時から、造られた物によって神を知る事が出来るようにしてくださいました。
ローマの信徒への手紙には、「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、それを通して神を知ることができます。」(ローマ1:20)と記されています。
命の不思議、森羅万象から真の神を知る事が出来るのだということです。しかし、人は心に罪を持ち、真の神を知ろうとしません。なぜ、人に酸素が与えられていて、今生かされているのか、知ろうとしないのです。天の父は愛の神であり、慈しみの神です。
しかし、同時に厳しいことも教えておられるお方であることを、覚えなくてはなりません。
「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
「隣人を愛する」とは、律法の教えです。十戒の人に対する教えをまとめたものと言えます。「あなたの敵を憎め」という言葉は、律法にはありません。ユダヤ教の指導者たち、ラビの教えなのです。
主イエスは、律法以上のことを教えておられます。
律法は何のために与えられていたのでしょうか。それは、「あなたには罪があります。行いではなく、キリスト・イエスを信じる信仰以外に救いはありません」ということを教えるためにあるのです。
「信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。」
(ガラテヤ3:23―25)。
山上の説教は、人は神の基準には到達することはできないという事を教え、行いによって義とされないことを教えています。
では、人はどうしたらよいのでしょうか。誰にでも与えられている恵みにとどまらずに、神の独り子、救い主を信じる信仰によって義とされることを受け入れなければなりません。
イエス・キリストを信じる者はだれでも神の子とされ、神の国の国籍を持つ者とされます。
永遠の命を歩むことができるのです。
多くの人はこの世の恵みに慣れてしまい、永遠の恵みに注意をむけようとはしません。だからこそ、私たちは、永遠の救い、永遠の恵み、イエス・キリストを伝えるのです。
きょう主が語っておられる、「敵を愛し、自分を迫害する者の為に祈りなさい」ということは、どのように受け取ればよいのでしょうか。それはできないことだ、理想だと言っておしまいにするのでしょうか。
主イエスを信じて、私たちは父なる神に祈ることを教えていただきました。良い時も、悪い状況の時も父なる神に祈ります。
私たちに害を与える人がいたとしても、その人の救いを祈ることができます。執り成しの祈りです。
ペンテコステ以後、多くの人々が救われて、教会が誕生しましたが、同時に迫害も大きくなりました。ことあるごとに弟子たちは拘束され、殉教する者たちも起こりました。
ステファノもその一人です。ステファノは恵みと力に満ちた人でした。ところがステファノが冒涜の罪をおかしたという偽証によって捕らえられてしまいました。最高法院で裁かれても、ステファノは動じませんでした。その顔は輝き、旧約聖書からイスラエルの歴史を通して働かれる神、そして、キリストの出現、受難を語り、人々は罪を指摘されて歯ぎしりをして怒りました。頑なで悔い改められない人々でした。
人々はステファノを都の外に引きずりだして、石を打ちました。
ステファノは、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」(使徒7:59)、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒7:60)と大声で叫びました。
ステファノは聖霊に満たされ、聖霊によって叫びました。
私たちは、聖書の知識だけでそのようにはなれません。肉の力や努力でも難しいでしょう。
しかし、私たちは主イエスを信じたのです。御言葉によって生かされている者です。信じる者の心には神の聖い御霊がおられるのです。
ほんとうに不思議です。罪深く弱い私たちの内に、聖霊がおられるのです。そうであるなら、御霊によって変えられていくのです。
キリストの品性を宿していきます。聖化されるのです。
強いられて一ミリオン行くのではなく、キリストの愛に溶かされて、二ミリオン歩くことこそ、神の子の歩み方であることを確信しましょう。
御霊によって栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変えられていくこと、それが私たちの祈りであり、希望であることを覚えましょう。
「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(Uコリント3:18)

今週のみことば
「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、
一緒に二ミリオン行きなさい。」
マタイによる福音書5章41節


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