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阪神チャペルセンター
礼拝メッセージ |
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「祝福の祈り」
ローマの信徒への手紙12章14-15節 |
10月第三週の主の日の礼拝をささげられる恵みを感謝します。
主イエスが常に私たちと共におられ、守り支えてくださる事を感謝します。
私たちは主イエスを信じてから、数えきれない大きな恵みをいただきました。
いちばん大きな恵みは、主イエスの十字架によって罪が赦され、永遠の命をいただき、神の子とされたことです。
今生きている時も、やがて御国へ移されても、同じ永遠の命に生かされていることは恵みであり、大変不思議なことです。
私たちはこの世にある限り、主を賛美し、御言葉を待ち望む事が出来ます。
「あなたの言葉は私の足の灯 私の道の光。」(詩篇119:105 聖書教会共同訳)。
私たちが生活の中で思い悩み、行きあぐねていたとしても、神の言葉は光となって、正しい道に導き、勝利させてくださいます。
さらに素晴らしいことは、主イエスは私たちに、祈りを教えてくださいました。祈りは父なる神との会話です。必要の為に祈るだけが祈りではなく、父の御心を聞き、従うことが祈りです。
私たちは毎日どのような祈りをささげているでしょうか。
ローマの信徒への手紙12章14節には、「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」とあります。
この手紙を記しているパウロには苦い体験がありました。まだ若くサウロと呼ばれていたころ、エルサレム教会に大迫害が起こりました。
きっかけになったのは、ステファノの殉教でした。
教会が大きくなって、使徒たちだけでは、さまざまな世話が行き届かなくなってきたので、教会内の世話を7人の弟子たちに任せることにしました。使徒たちは、もっぱら祈りと御言葉の用ができるようになったのです。
選ばれた7人の弟子たちは聖霊に満たされた人々でした。
その一人がステファノで、彼は恵みと力に満ちた人でした。
言葉にも力があり、反対する者たちが議論を仕掛けても、打ち負かされてしまいました。ステファノは御霊と知恵によって語ったからです。
悔しさのあまり、ステファノを捕えて、神を冒涜する者としての偽証により、石打の刑に処しました。
ステファノは、顔を輝かせ、自分を迫害する者たちのために祈りながら、殉教しました。
「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」。これが最後の祈りでした。
ステファノ殉教の時、パウロもその場にいました。パウロはファリサイ派でしたから、ステファノの殉教に賛成し、石を投げつける人々の上着を預かりました。
この時から始まった大迫害により、使徒以外の弟子たちは、エルサレムから散らされて行きました。しかし彼らはその先々で福音を伝え続け、やがて多くの所で実を結び、教会が建て上げられていきました。
パウロは後にクリスチャンを捕えるために出かけたダマスコ途上で、復活の主にお会いし、悔い改めて主の救いを伝える者に造り変えられました。
生涯を通して、伝道者として働き通したのです。
自分はかつては罪が分からず、高慢で救われていない者だったことを知り、悔い改めてイエスの十字架の死と復活を宣教する者となったのです。
パウロはいつも、自分が迫害者だったこと、しかし、神の憐みにより救われて、キリストを伝える者に変えられたことを、忘れることはありませんでした。
迫害は殉教を意味します。自分の持っている信仰のために死に追いやられるとしたら、いったいどうすればよいのかと考えてしまいます。
私たちは、常に目と心を主イエスに向けなければなりません。その御言葉に聞く必要があります。
その人生が平安である時も、心が騒ぎ立つような不安に襲われる時も、神の祝福が変わりなく注がれていることを、心に留めなくてはなりません。
聖書で教える祝福とは、私たちにとって都合よく、すべての事が進められていくということではありません。
祝福とは神の恵み、贈り物と考えることができます。
旧約聖書を読むと、神の祝福は物質的な繁栄を伴うことが記されています。
父イサクの祝福を受けたくて、ヤコブは兄エサウのふりをして、病の父に近づき、祝福を奪い取りました。
エサウは弟の後から父の許に行きましたが、すでに祝福はヤコブに与えられたので、もう祝福はありませんでした。神が与えられる長子の特権の祝福です。
これが、物質的な祝福であるなら、エサウも財産分けのような形で受ける事が出来たでしょう。しかし、大切なのは、神からの霊的な祝福だったのです。これは分ける事が出来ません。
エサウは霊的祝福の価値が分からずに、若い時にヤコブに一杯の椀で譲ってしまいました。後に祝福を受けようと、泣いて嘆いても、もう取り返すことはできませんでした。
エサウは長子の特権を弟に渡したとき、お腹が空いていて、すぐに弟の造っている食物が食べたかったのです。長子の特権など空腹に何の役に立つかと、軽んじました。
ヤコブはその特権は永遠の祝福であることを知っていました。ここに大きな差があったのです。
人は目に見える物、この地上のものを求めがちですが、世の物は移り変わり、やがてなくなります。しかし、神の霊の祝福は無尽蔵なのです。
「また、だれであれ、ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないよう気をつけるべきです。あなたがたも知っているとおり、エサウは後になって祝福を受け継ぎたいと願ったが、拒絶されたからです。涙を流して求めたけれども、事態を変えてもらうことはできなかったのです。」(ヘブライ12:16,17)。
永遠の、変わることのない価値のあるものを知らなくてはなりません。それは、この世にある、どのようなものともかえることはできません
エソウは、みだらな者、俗悪な者と呼ばれています。
不敬虔で冒涜的な者となってはいけないということです。
私たちは、キリストの救いを受けたものです。救われた者の特権は、神の祝福を受け続けるということです。
この世のどのような価値あるものとも、交換できない神の祝福を既にいただいています。
これは自分だけがいただいてそれでよいのでしょうか。自分だけで止めるのではなく、祝福は多くの人に分けるものです。
自分を迫害する者のために、祝福を祈るようにと御言葉は勧めています。パウロは、迫害する者をも憐れみ、祝福し用いられるイエス・キリストによって救われました。だれよりもそれが分るので、迫害者のために祝福を祈ることを記したのです。これは、主イエスも教えておられる教えです。祝福は、まことの救いを分かち与えることであり、呪うとは、滅びへと落とすことです。
滅びても良い人はいません。どのような人にも、私たちが頂いている祝福を分けていき、それが広がる事こそ、御心であることを覚えたいと思います。
喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く事が出来る心を持ちたいと、願います。
愛の神である、父を心から崇め、いただいている祝福を感謝し、その祝福が私たちから多くの人々に流れ行くようにと、心から願い、祈りましょう。
今週のみことば
「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。
祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」
ローマの信徒への手紙12章14節
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