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阪神チャペルセンター
礼拝メッセージ |
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「主イエスの家族」
マルコによる福音書3章31-35節 |
素晴らしい神の愛と恵みによって、きょうも心を一つにして礼拝をささげられることを感謝します。
もう10月も終わろうとしています。今年もあと二か月余りとなりました。
祈りながら、クリスマスの備えをする時期にもなっています。主イエスのご降誕をお祝いし、感謝する幸いなクリスマスを迎えられるように、祈り備えましょう。
主イエスは、ガリラヤ伝道での拠点をカファルナウムに置いておられました。主イエスの教えを聞こうとして、群衆が押し寄せていました。
マルコによる福音書3章20節には、「群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。」とあります。
主イエスの許に大勢が押し寄せて来て、癒しと救いを求めているということを聞いた親族は、ナザレからカファルナウムへやって来て、主イエスを連れ帰ろうとしていました。
否定的な人々が流している、「あの男は気が変になっている」(マルコ3:21)という噂のためでした。
主イエスには、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダという兄弟がいて、また、姉妹も何人かいることがわかっています。(参 マタイ13:55)。
主イエスの許を訪れたのは、母マリアとこれらの兄弟姉妹だったのでしょう。
彼らは、悪い噂を聞いて、主をガリラヤへ連れ帰り、守りたかったのかもしれません。
母マリアは、聖霊によって身籠り、神の子を出産するという体験をしたのです。天使ガブリエルの受胎告知、ベツレヘムでの出産、博士たちの礼拝など、忘れるはずはありません。ガリラヤのカナでの結婚式でも、水を最上のぶどう酒に変えるという、奇跡を目の当たりにしていました。ですから神の子であるイエスを、余計に守ろうとしたのでしょう。
母マリアはともかくとして、兄弟たちには主イエスを信じる気持ちはなかったようです。世間体も気にしていた様子があります。大変人間的な様子でした。
現在でも、主イエスを信じると、祖先供養とか、親せきとの付き合いはどうするのかと、家族が心配し反対することがあるようです。何より大切なのは、まことの救いであることを、祈りつつ忍耐をもって伝えることが必要です。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒16:31)の約束は成就されます。
主イエスの家族は人々の噂を聞いて、カファルナウムまでやってきたのです。
主イエスのおられる家までやってきたのですが、群衆でいっぱいになっていて、家に入る事が出来ませんでした。それで、人に頼んで自分たちが表にいることを伝えてもらいました。
すると、主イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」(マルコ3:33)と言われたのです。
もちろん主イエスは母マリアも、兄弟姉妹たちをも愛しておられます。しかし、御自分がこの地上に来られた真の目的を、どのような時も見失われることはありませんでした。
すべての人を罪から救うために、罪を贖うために十字架で命を捨てられることは、主イエスの変えることのできないお働きでした。
ですから、家族がその愛によって主イエスを連れ戻そうとしても、主イエスの姿勢を変えることはできませんでした。
これは、私たちも生涯持ち続けなければならない信仰の姿勢です。
主イエスは、「周りに座っている人々を見回して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。』」(マルコ3:33−35)と言われました。
ここにいる人とは、12弟子たちや他の弟子たち、多くの人々を言います。
主イエスは、神の御心は、知るだけではなく、行うことを教えておられます。
私たちは、毎日聖書を読み、日曜日に礼拝をして、御言葉を聞きます。
賛美をささげながら、その歌詞に教えられることもあります。
しかし、ただ聞いて良かった、感動したというだけで終わったなら、私たちの魂の深い所での悔い改めはなされません。
「だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。」(ヤコブ1:21−24)
このように、御言葉を行う人であるようにとあります。また、御言葉を心から愛し守る人は、それによって豊かな祝福を得ることが約束されています。
私たちは、信仰の成長を願います。一歩一歩進んで行きたいのですが、それを妨げるものに注意しなければなりません。
不注意の一つは、罪に鈍くなることです。主イエスの御心に従うことが喜びになっているだろうか、信仰に反するような言動はなかっただろうかと、十字架の前に自分自身を置き、悔い改めることは大切です。
小さな罪がそのままになっていると、それが積み重なり、主イエスから遠い所にいる自分に驚きます。主イエスより、この世が良いなどとなってしまったら、そのままで良いわけがありません。
悔い改めれば、ただちに赦されるのです。
どのような時も主イエスを見上げて、より頼んでいるだろうかと、自分自身を見つめなければなりません。
私たちは、苦しみに会い、解決できないような問題を持ち、試練に悩みます。将来に対する恐れを持つこともあります。
それらはいったいどうすればよいのでしょうか。人に相談しても限りがあります。
徹底的に主イエスを信じ、委ねる信仰に生きることです。主イエスに答えがあることを信じなくてはなりません。
人にはできないことを主イエスはなさいます。
重荷は安心してお任せしてよいのです。最善の時に最善をなして下さる主イエスを信じましょう。
聖霊の満たしを祈りましょう。私たちが自分の力で、しっかり信仰の道を進もうと決心することは、信仰の第一歩です。しかし、自分の力だけでは進めないことも覚えましょう。それは弱さの為なのですが、主イエスは常にその弱さの為に祈り、支えてくださいます。聖霊が私たちに宿り、導いて下さいます。
主イエスは、神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだと言われました。
私たちは、主イエスの十字架により、罪許されて、神の子とされました。神の子にふさわしく、御心を知り、御心を歩みたいと思います。
主イエスは神の御心に忠実でした。仕えられるためではなく、仕えるために来た。多くの人の贖いとして命をささげるために来られたのです。
「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
(マルコ10:45)。
聖霊に満たされ、御言葉に命をいただき、主イエスの家族、兄弟とされていることを喜びとし、誇りとし、主がなさったように、私たちもできることをしていきたいと思います。
神を愛し仕え、人を愛し仕え、主にある兄弟姉妹を愛し仕え、この世の人々に福音を伝える、それが御心であることを覚えます。
私たちは小さい者ではありますが、主の愛と恵みにより、用いられることを感謝します。
私たちを通して救いの御業が広げられていくことを、望み、信じて御言葉に従いましょう。
今週のみことば
「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」
マルコによる福音書3章35節
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