阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2025年11月9日
第2聖日礼拝
「神は光であり」
ヨハネの手紙T1章5-10節

 きょうも愛する兄弟姉妹と共に礼拝をささげられる恵みを感謝します。
礼拝は、真の神を神としてあがめ、神の言葉に養われ、恵みの中に自分を神にささげて応答することです。神との命の交わりであることを、そして、大切な奉仕であることを、覚えたいと思います。
ヨハネの手紙を書いたのは、ゼベダイの子のヨハネです。兄弟はヤコブで、若いころガリラヤ湖畔で主イエスに召されて、使徒となりました。
雷の子とあだ名されるほど、血の気が多い人でしたが、晩年は穏やかな愛を説く人となりました。
ヨハネの手紙T1章5節には、「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。」(Tヨハネ1:5)とあります。
私たちが主イエスから聞いている福音は、こうだ、と宣言しています。
それは、「神は光であって、神には闇が全くないということ」です。
ヨハネが働いていた時代にも、異なる福音(異端)が入り込むようになっていました。福音を曲げて教え、異なる教えを受け入れなければ救われないと、宣伝する偽教師と呼ばれる人々がいました。
神を信じ、神との交わりをしていくためには、特別な宗教体験をしなければならない、また、特別な知識を持たなければ霊的ではないなどと教えました。
自分は神秘的なこと、他の人が知らないようなことを知り、特別な体験をしていると思い、霊的だと思い、自分を誇り、そうであるなら、日常の生活はどれほど乱れていても良いのだと、思い込んでいる人々がいました。
「わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。」(Tヨハネ1:6)とあります。
自分は信仰がある。霊的な者だと言いながら、暗闇の中にいるなら、それは偽りだと教えました。
福音とは人に救いをもたらす、良いお知らせの事です。
パウロは、「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと・・・」(Tコリント15:1−4)と、コリントの教会へ書き記しました。
パウロも、かねて教えていた福音について、もう一度書き記しました。
主イエスが私たちの罪の為に、十字架で死なれ、三日目に復活されたことを信じる者は、救われて神との聖い交わりの中に入れていただけるのです。十字架による以外救いの道はありません。
福音を曲げてはならないし、曲げられたものは福音ではないと、識別できる力を、いつも求めて祈ることは大切です。
御言葉は、「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(Tヨハネ1:7)と、希望の光を与えています。
神が光であるなら、罪ある自分は光の中を歩めるのかといった疑問が湧き上がります。私たちは、何度でも主イエスの十字架の救いを思い起こさなければなりません。
罪のない方が罪ある者の為に死んでくださった。十字架で尊い血潮を流されたのです。
主イエスの命によって、私たちは罪を贖われて、赦されました。
光の中へ入ることができるようにして下さったのです。救われた者は、「光の子」です。
「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」(エフェソ4:7,8)
このように、今、自分は光の子とされていることをしっかりと覚えて歩みたいと思います。
人はこの世にある限り、罪との戦いがあります。油断すると、すぐに足元をすくわれてしまいます。
三浦綾子さんのエッセーのなかに、「切手の話」がありました。ある時、綾子さんは講演の中で、その話をされたそうです。
郵便物を受け取ったとき、切手に消印が押されていなかったので、それを使おうと思ったそうです。ところが夫の光世さんはとんでもないことと叱りました。
光世さんは、消印があろうとなかろうと、その切手は使用済みのものだ。それを使うなどと、それは、クリスチャンとしても、人としてもいけない事だと、言われたそうです。
綾子さんはすぐに悔い改めましたが、ある人は、なぜそれがいけない事かが理解できずに、三浦夫妻は変わっていると言ったそうです。使えるものをなぜ使わないのかという意味です。
光の子は罪に対して敏感です。光は汚れを浮かび上がらせます。しかし、世は暗闇なので、罪が分からないのです。三浦夫妻は変わっていると言った人も、自分が暗闇の中にいるから、正しいことが理解できないということが分からないのです。
罪の為にこの世には多くの問題が絶えません。国と国との争いが絶えないのは、欲の為であり、体面の為であり、憎しみの為です。
人と人の争いも、問題点が大きいか小さいかで、根本は罪です。
あの人より、自分の方が正しいと、お互いに思って裁き合っていたら、平和はありません。
光の子としてのクリスチャンは、罪のこの世で輝く事が出来ます。
神の光に招き入れられた者は、罪から清められています。
しかし、「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。」(Tヨハネ1:8)と教えています。
光の中を歩む者であっても、罪は犯してしまうのです。言葉においても、思いにおいても、罪はあるのです。
隣人を愛するようにと、大切なことを教えられているのに、隣人を傷付けてしまう事もあります。
それは以前だったら気が付かなかったかもしれません。光の中にある者は、罪に気が付くように変えられました。
自分が罪ある者であることを知る者は幸いです。謙遜になる事が出来るからです。
いつでも、神の前にひざまずき、悔い改めることができるからです。
「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。」(Tヨハネ1:9,10)
神の前に罪を認めて、告白する時、赦しが与えられます。赦された者は喜びを知ります。
罪を悔い改めることのできる幸いを知る事が出来るのです。
ダビデ王は許されないほどの、大きな罪を犯しました。しかし、悔い改めた時に、再び光の中を歩む事が出来ました。神との交わりが回復されたのです。赦されない罪はありません。
「神よ、わたしの内に清い心を創造し 新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再びわたしに味わわせ 自由の霊によって支えてください。」(詩篇51:12−14)
光の中に招き入れ、歩ませてくださる神は、決して見放すことはありません。
何度でも何度でも神の御前に悔い改め、新しい恵みと力に立ち上がらせてくださいます。
神との麗しい交わりを喜び感謝し、賛美し続けて参りましょう。


今週のみことば
「わたしたちがイエスから既に聞いていて、
 あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、
 神には闇が全くないということです。」
 ヨハネの手紙T1章5節




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