阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2025年11月23日
第4聖日礼拝
「光が差し込んだ」
マタイによる福音書4章12-17節

 主イエスの守りの中を歩み、きょうも神の臨在の中で礼拝をささげられることを感謝します。
礼拝は天の父に自分自身をささげることです。御前に近づいて、親しく交わり、新しい命に満たされる時です。私たちの信仰と生活の基であることを覚えつつ礼拝しましょう。
主イエスは、30歳になられて、公の生涯に入られました。
公生涯と言われています。それまでは、ガリラヤのナザレという町で家族と共に住んでおられました。地上での父であるヨセフは、早く亡くなっているようなので、父の仕事であった大工をしながら、家族の世話をしておられた可能性があります。
主イエスは、バプテスマのヨハネからヨルダン川で洗礼を受けました。
聖霊が鳩のように降り、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声がありました。
荒野でのサタンの誘惑を見事に退けられたのですが、バプテスマのヨハネが逮捕されたということを聞いて、ガリラヤへお帰りになりました。
ヨハネはヘロデ王の結婚について、兄弟の妻へロディアを娶るのは律法で許されていないと、ヘロデに言ったために、捕らえられ、その後処刑されたのです。
主イエスは、ナザレを離れて、ゼブルンとナフタリ地方にあるカファルナウムに住まわれました。13節に、「ナザレを離れ」とありますが、離れるというこの言葉は、「捨てる」という、強い意味があります。
懐かしいナザレの町を捨て去り、これから神の国を伝え、十字架の救いを宣教していくのだという、強い意志が表れています。
しかし、この後、ナザレに行かれたという記事があります。
マタイによる福音書13章53節以下には、主イエスがナザレの会堂で教えておられることが記されています。
主イエスがナザレの会堂で教えられたことは、マルコによる福音書、ルカによる福音書にも記されています。
特にルカによる福音書には詳しく記されていて、主イエスがメシアであり、イザヤ書の御言葉が成就したことが、宣言されています。
主イエスは会堂で、イザヤ書の巻物を読まれました。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」
(ルカ4:18,19)イザヤ書61章1−2節の引用です。
会堂にいた人の目は主イエスに注がれていました。主は、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」(ルカ4:21)と言われたのです。
はるか昔、預言者イザヤは、救い主メシアの到来を預言しました。主イエスは、今、あなた方の目の前で、御言葉は成就したと語ってくださいました。救い主によって罪から解放され、自由にされて、救いを受ける、恵みの時が来たのです。
ところが、ナザレの人々は、主イエスの御言葉に感嘆をしても、「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」(マルコ6:3)と言って、主イエスにつまずきました。信じなかったのです。永遠の救い、永遠の恵みが差し出されているのに、信じる事が出来ない罪の深さは今も変わりません。
主イエスは、ナザレではほとんどお働きをすることができませんでした。
主イエスは伝道の拠点をカファルナウムに置かれたのですが、それは預言者イザヤの預言が成就したのだと、マタイは記しました。
「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が差し込んだ。」(マタイ4:15,16)
この御言葉は、イザヤ書8章23節―9章1節が引用されています。
ゼブルンとナフタリの地とは、ガリラヤ地方の北方を指します。
もともとは、北王国イスラエルが治めていましたが、BC732年には、アッシリアに滅ぼされてしまいました。
そのために、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれるようになったのです。
当時、異邦人は救いを受けられないと信じられていました。まったく神から遠い存在、汚れた存在、神からの選びはない存在と扱われていました。ガリラヤの人々も、そのように思われていました。
主イエスが宣教の拠点とされたカファルナウムも、異邦人であるローマの軍隊が駐留し、ローマのための収税所も置かれていて、汚れた土地であって、このような所にメシアがおいでになるはずはないと思われていました。しかし、主イエスはナザレでお育ちになり、カファルナウムで宣教を始められました。
神から遠いと思われていた地、人、異邦人同様と差別されていたような人たちの中で、主イエスは神の愛と神の国を伝えられました。
「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ」、ここだけを見ると、どこにも救いはないように思われます」。
人がどこで誕生するのかは、自分で選ぶことはできません。どのような家庭に生まれるのかも選ぶことはできません。
不思議なことの一つですが、確かなことは、命は神のもので、神がお造りになって、その所に置いてくださったということです。この世でいつまで生かされるのかもわかりません。裕福であっても、貧しくても、人の命は神から与えられているのです。
世で生きる時、様々な戦いがあります。心の罪の為に暗闇の中を歩まなければなりません。
まさに、異邦人のガリラヤで生きるような心持ちの人が大勢います。
救いの道が分からないからです。
しかし、救い主は、異邦人のガリラヤで救いを伝えられました。
「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が差し込んだ。」(マタイ4:16)と、まことの光が顕れ、救いがもたらされたのです。
福音、幸いな良いニュース、福音は主イエス様御自身なのです。
太陽が昇ると、暗闇は消え去ります。光は暗闇の中に輝き、暗闇は光に対抗することはできません。まさに、「死の陰の地に住む者に光が差し込んだ。」(マタイ4:16)とある通りです。
人が罪をもったままでよいわけがありません。心の罪です。自己中心であり、真の神を信じようともせずに、自分の思うように生きていっても、それは死の陰に住んでいるのです。
イエス・キリストは、ガリラヤで宣教を始められて、多くの人々に救いと癒しを与えてくださいました。
そして、エルサレムへの道を進んでくださいました。十字架への道です。
すべての人の罪を背負われ、身代わりとなって命を捨てて下さいました。
罪の代価はすでに主イエスが十字架で支払って下さいました。
まことの光が私たちの上に差し込んだのです。
罪を赦していただき、神の子、光の子として生きるようにしてくださいました。神の愛と救いを心から感謝します。
来月はクリスマスを迎えます。世の中でもツリーを飾り、きらきらと輝くイルミネーションを見かけるようになります。
クリスマスは光と、世の中でも知っているのです。ただ、それが何の光なのかがわからないのが、大変な問題です。
主イエスこそまことの光であり、その光が差し込んだことを、感謝し伝えていくことが、クリスマスであることを覚えたいと思います。
今年のクリスマスが、私たちの家族、友人、周囲の人々の救いの時であるようにと祈り、備えていきましょう。
「死の陰の地に住む者に光が差し込んだ。」(マタイ4:16)
主イエスは「悔い改めよ、天の国は近づいた」と、宣教を始めてくださいました。
救いを感謝し、宣べ伝えましょう。

今週のみことば
「闇の中を歩む民は、大いなる光を見
 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」
 イザヤ書9章1節


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