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阪神チャペルセンター
礼拝メッセージ |
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「キリストの愛と救い」
ペトロの手紙T 1章18-19節 |
アドベント第2週を迎えました。救い主の誕生を待ち、祈り備えましょう。
主イエスを心に受け入れた人は、だれでも神の子として生きるようになります。かつては罪に支配され、滅びの道を歩む者でした。
しかし、主イエスを心に受け入れた時から、永遠の命の中に生かされ、神の子とされ、その力強い御手に守られて歩む者になりました。
暗闇から光の中へと招き入れられたのです。
Tペトロの手紙1章18以下には、「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。(Tペトロ1:18、19)とあります。
教会では、「救い」とか、「贖い」とかという言葉をよく聞きます。
救いとは、罪の為に滅びなければならなかった人が、罪赦されて、神の許に帰り、永遠の命に生かされることです。罪と死からの解放です。
迷子になっていた者が、真の父のもとに帰ることができたと、考える事が出来ます。
贖いとは、買い戻すという意味があります。
聖書の時代には、貧しさの為に負債がかさみ、奴隷として自分を売らなければならない人がいました。あるいは、戦争の捕虜となった人が、奴隷になることもありました。
また、国が滅ぼされて国民が奴隷になってしまう事もありました。アッシリヤやバビロンによる捕囚です。
そのような状態から解放されるためには、金や銀によって身代金を支払い、自分を買い戻さなければなりませんでした。
人は先祖から受け継いできた生活を、誇りに思うことがあるでしょう。伝統、習慣、宗教などがそれぞれあります。
日本でなかなかクリスチャンが増えない原因には、代々受け継いできた固有の考え方があります。何を信じても救われるといった考え方です。
宗教観もあいまいで、なかなか魂の救いについて考えることがありません。心の中に漠然とした不安があっても、求道に結び付かないのが現状です。
「むなしい生活」の中に縛られているのです。
主イエスは御自分の事をこのように言われました。
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10:45)
罪と死からの解放が欲しくても、人にはその手段は持ち合わせていません。奴隷が解放されるためには、金や銀の代価が必要でしたが、そのような代価では、魂の買い戻しはできません、
イスラエルがエジプトで奴隷として苦しんでいた時、神はその嘆きとうめきをお聞きになりました。
神はモーセをお立てになり、出エジプトを計画されましたが、ファラオは頑なに拒みました。
十の災いが起こっても、イスラエルをエジプトから解放しようとはしませんでした。
最後に大きな出来事がありました。「過ぎ越し」です。
家族ごとに羊を屠り、鴨居と入り口にその血を塗る事。主がエジプトを打つとき、その血を見てその入り口を過ぎ越される。
エジプト中で初子が打たれ、大きな嘆きが沸き起こり、ファラオはやっとイスラエルを去らせたのです。小羊の血が流されました。
コリントの信徒への手紙T 5章7節には、「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたのです。」(Tコリント5:7)と記されていて、十字架で流されたキリストの尊い血によって、信じる者は罪と死から解放されると、約束しています。
罪のない方、神の独り子がこの世にお生まれ下さり、人を罪と死から救うために、十字架へ向かわれ、命を捨てて下さった。尊い血潮を流された。それはいったいなぜなのでしょうか。
神は愛だからです。
主イエスの十字架により、神はその愛をあらわされました。神は罪人を愛し、滅びゆくことを良しとはなさいませんでした。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Tヨハネ4:9,10)
エデンの園でアダムとエバが罪を犯し、その時から人は罪ある者となりました。真の神を信じようともせずに、偶像をつくり出し、自分の好みに合わせて信じるようになりました。
先祖伝来の空しい生活とは、「偶像崇拝」の生活という意味があります。イザヤ書に、人は木材を切り分け、一方に像を刻み、神とし拝み、救いを願う。もう一方の木材は燃やして調理に使う、という描写があります。
「木は薪になるもの。人はその一部を取って体を温め 一部を燃やしてパンを焼き その木で神を造ってそれにひれ伏し 木像に仕立ててそれを拝むのか。また、木材の半分を燃やして火にし、肉を食べようとしてその半分の上であぶり 食べ飽きて身が温まると 『ああ、温かい、炎が見える』などと言う。
残りの火で神を、自分のための偶像を造り、ひれ伏して拝み、祈って言う。『お救いください、あなたはわたしの神』と。」(イザヤ44:15−17)
彼は自分の魂を救う事が出来ず、救いにはならない事にすら気が付かないとイザヤは記しました。
すこし滑稽にも見えるのですが、これが迷う人の姿なのです。
また、目に見える偶像は拝まなくても、心に偶像を持つこともあります。
この世のものを、何よりも大切に考えてしまうことは良くあります。
地位や、名誉、財産、それらの物を一番大切な拠り所としてしまうなら、その人にとって、それが偶像になってしまいます。
いつも心を見張り、神がお喜びにならないものがあるなら、いち早く悔い改めることは大切なことです。
「神よ、どうか、わたしを探って、わが心を知り、わたしを試みて、わがもろもろの思いを知ってください。わたしに悪しき道のあるかないかを見て、わたしをとこしえの道に導いてください。」(詩篇139:23,24口語訳)
私たちの深い所を聖霊によって探っていただき、神がお喜びにならない傷(罪)があるなら、それを捨て去り、とこしえの喜びの道へと導かれることを願うのは、幸いなことです。
もし、罪があるなら、主イエスの十字架の血で聖めていただけます。
罪を犯したことがない者としてくださいます。
クリスマスを迎えようとしているアドベントは、自分自身の信仰を振り返る時です。
救いを感謝し、喜ぶときです。暗闇からまことの光の中に招き入れられたことを改めて思い起こす時です。
主イエスの十字架により、永遠の命をいただく事が出来た幸いを覚える時です。
主イエスの十字架こそ、光と救いです。この光を多くの人々に差し出しましょう。
「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」(Tペトロ2:9)
クリスマスは喜ばしい救いの訪れの時です。それだけではなく、静かに主の十字架を思い、悔い改める時です。
私たち一人一人の為に十字架で苦しまれ、血汐を流された主の愛を思い、その愛を伝えて参りましょう。
今週のみことば
「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。」
コリントの信徒への手紙T 5章7節
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