阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2026年1月11日
第2聖日礼拝
「イエスに叫ぶ」
マルコによる福音書10章49-52節

 きょうも、兄姉とともに、礼拝をおささげ出来ることを感謝します。
礼拝は神を崇め、御言葉を聞き、自分自身を献げる時です。
神の前に喜びを持って進み出て参りましょう。
主イエスが十字架に架られる為に、エルサレムに向かう途中、エリコをお通りになりました。
エリコは、大変古い町で、紀元前8千年前には城壁で守られた町があったと言われています。
エリコとエルサレムは高低差が千メートルほどありますが、距離は
20キロメートルほどで、それほど遠くはありませんでした。
もうすぐ、エルサレムに到着する頃の出来事が、記されています。
エリコで、バルティマイという盲人が、道端で物乞いをしていました。
平行記事がマタイやルカにありますが、名前を記しているのはマルコだけです。
バルティマイは、ティマイの子だとあります。
聖書の中に出て来る名は、意味のある名が多いのですが、ティマイは、「罪の子」という意味でした。なぜこのような名をつけるのか分かりません。しかし、人はだれでも罪を持ち、「罪の子」であり、「汚れた者」であることを忘れないためなのかもしれません。
バルティマイは、「罪ある者の子」という意味になります。
バルティマイは、イエスがエリコを出て行こうとされた時、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めました。周囲の人々が彼を叱り、黙らせようとしましたが。バルティマイはますます大きな声で叫び続けました。
主イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」(マルコ10:49)と言われました。
人々は。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」(マルコ10:49)と伝えました。
バルティマイは、主イエスが呼んでおられることを聞き、上着を脱ぎ捨て、躍り上ってイエスの所にやって来ました。
物乞いをしているバルティマイの財産と呼べるものは、上着くらいだったでしょう。昼間は上着であり、夜には寝具にもなる大切な上着を、脱ぎ棄ててしまいました。まだ、目は明いていないのです。
主イエスは、彼に、「何をしてほしいのか」とお聞きになりました。「目が見えるようになりたいのです」(マルコ10:51)と、お答えしました。
主イエスとの会話です。
私たちも、主イエスとの会話をしています。礼拝は神との交わりです。祈りも会話です。
神と語り合い、応答できるのは、神の子の特権です。
主イエスは神ですから、人の心を知っておられるお方です。バルティマイの願いを御存じでした。しかし、主イエスはあえてお聞きになりました。
私たちには口が与えられています。この口を主イエスとの会話に用いなさいと、教えられているのです。
聖書には、生まれながらに目の見えない人が癒されたという記事が、記されています。
ヨハネによる福音書9章にも記されています。
主イエスが通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられました。弟子たちは、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」(ヨハネ9:2)と、聞きました。
当時の人たちは、不幸があると、それは罪の結果だと思っていました。
しかし、主イエスは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9:3)と、いわれて、この盲人を癒してくださいました。
この後、この盲人の目が癒されたことで、ファリサイ派とのやり取りがあるのですが、「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」(ヨハネ9:39)と、言われました。
これは肉の目の事だけではなく、霊の目が開かれていないファリサイ派に向けたお言葉でした。自分たちは何でも神の事は分かり、律法を守り従っていると思い込んでいたファリサイ派は、何も見えていない。しかし、罪の為に救いが分からなかった者は、目が開かれて、主イエスを受け入れることができたのです。
バルティマイは、主イエスは救いと癒しを与えられる、神の子であることを信じていました。肉の目は見えませんでしたが、心には主イエスを信じ、受け入れる信仰があったのです。
主イエスは、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」(マルコ10:52)と言われて、癒して下さいました。
あなたの願い通りに目が開かれたのだから、安心してあなたの新しい人生を進みなさいと、励まされたのです
しかし、バルティマイは、「なお道を進まれるイエスに従った。」(マルコ10:52)。主イエスに従って行く道を進みました。
「罪ある者の子」であった者は、「光の子」として生きることが出来たのです。
人が、主イエスと出会うチャンスはどれくらいあるでしょうか。
バルティマイは、エリコの町で、目が見えず、一生物乞いとして生きていかなければならなかったかもしれません。
彼は、主イエスが来られた時のチャンスを逃しませんでした。叱られても、主イエスに叫ぶことをやめませんでした。主イエスの耳は、その声を聞き逃されることはありませんでした。
主イエスは、遠くにおられるお方でしょうか。そうではありません。今生きておられて、あなたと共にいるお方です。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と約束されて、事実そのように歩んでいてくださいます。
いつでも、どのような時も、主イエスに祈り、求める事が出来るのです。
私たちは、多くの人々の救いの為に、叫び求める事が出来ます。
このエリコでの出来事の後、主イエスはエルサレムにお入りになりました。エルサレムとエリコは一日で行く事の出来る距離です。
主イエスはロバの子に乗られてエルサレムに入城されました。
すべての人の罪を贖うため、十字架に架るためです。
バルティマイは、見えるようになった目で、主イエスの十字架の死と、復活を見たのかもしれません。
福音書にはその後のことは、記されてはいません。しかし、名の載っていない多くの人々と同じように、主イエスの死と復活を証しし続けたと思います。
私たちも、かつては罪の為に目が見えないような者でした。一体罪とはどのようなものなのかも、知りませんでした。
自分がどれほど自分中心で、人を傷つけていたかも分からないような者でした。暗闇の中を歩み続けている者でした。
しかし、主イエスというまことの光に見いだされて、この方を救い主として信じて救われました。
救いは、罪許され神の子とされて、永遠の命に生きることです。
この世にある限り、主イエスが共におられて、支えてくださる事を実体験することです。
この世は実に不安定です。いつ何が起こるか分からないような世界です。危険が隣り合わせにあるような世界です。
確実なことは、主イエスこそ神であり、救い主であるということです。
私たちは主イエスを信じて、霊の目を開いていただきました。
主イエスに従い続けて行く恵みの人生を、これからも送りたいと思います。
そして、叫びにならない叫びをもって、救いを求める声を聞き分ける耳を持ちたいと思います。
「あなたの救い主はこの方です。主イエスこそあなたを救って下さる神です」と、語り続けて行き、救いの御業を見て参りたいと思います。


2026年のみことば
「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」
 Uテモテへの手紙4章2節




 ページのトップへ
  
2026年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ