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阪神チャペルセンター
礼拝メッセージ |
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きょうも福音書から、主イエスが教えられていることを、聞きましょう。聖書は私たちを真理に導き、御心にかなった歩みに導く、命の御言葉です。
主イエスは、全世界の罪を贖うために、十字架に架ってくださいました。
主イエスは、エルサレムへと向かわれました。十字架への道です。
きょうの福音書の記事は、マタイ、マルコ、ルカの三つの共観福音書、そして、ヨハネによる福音書にも記されています。
どの福音書にも、主イエスが神殿で商売をしている人たち、両替をしている人たち、犠牲としてささげる動物や鳩を打っている人たちを、追い出されたお姿が記されています。
主イエスはエルサレムにお入りになる前に、ベタニアでお泊りになりました。そして、ロバの子に乗られてエルサレムにお入りになりました。人々は葉のついた枝を道に敷き、主イエスを歓迎しました。
人々は、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように」と、叫びました。棕櫚の聖日と呼ばれている日の出来事です。
マルコによる福音書によれば、主イエスはこの日神殿にお入りになり、あたりの様子を御覧になって、夕方になったので、弟子たちを連れてベタニアに帰られたことが記されています。
当時の神殿は、大変立派な建物でした。神殿の中心は至聖所です。近くに祭司の庭、次にイスラエル人の庭、婦人の庭、異邦人の庭と区切られていました。
至聖所のそばに祭司が犠牲の動物をささげる場所があって、ユダヤ人の男子はその手前まで行く事が出来ました。
異邦人の庭は、神殿の外側にあって、異邦人の改宗者はそこまでしか入ることができませんでした。
主イエスは異邦人の庭の有様を御覧になりました。
そこでは、両替をしたり、商売をしている人々が大勢いました。
当時のユダヤ人男性は、神殿に税を納めなければなりませんでした。普段はローマの貨幣を使用していましたが、神殿には神殿用の銀貨を使わなければなりません。ですから、両替をする必要があったのです。
礼拝をするための両替でしたが、両替商たちは高い手数料をとって、儲けていました。
商売をする人たちは、神殿で犠牲としてささげるための動物を売る人たちです。神殿でささげる動物は、律法で、「完全で傷がなく、汚れがないものでなければならない」と規定されていました。
自分で動物を連れて来た場合は、検査を受けなければなりません。
検査料がかかりますし、せっかく連れてきた動物がふさわしくないと判断されると、無駄になってしまいます。
はるばる連れて来るより、神殿で購入した方がよいということになってしまいました。当然、商人たちは高い値段をつけて儲けていました。
祭司たちも黙認して、その利益に預かったのです。
主イエスはそのような様子を御覧になって、強引とも思えるようなことをなさいました。
両替人の台や、動物を売る者の腰掛をひっくり返し、境内を通って物を運ぶこともお許しになりませんでした。
主イエスは柔和な方なのに、なぜと思います。
それは、神殿本来の姿が失われていたからです。
神殿は真の神を礼拝する所なのに、いつの間にか人の商売の場になってしまっていたのです。
主イエスは、「『わたしの家は、すべての国の人の 祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちは それを強盗の巣にしてしまった。」(マルコ11:17)と、言われたのです。
神殿は、神の家であり、礼拝をささげる所なのに、「強盗の巣」としてしまったと、言われました。
強盗の巣とは、欲の為に人々から金品を強奪する者たちが巣くうところという意味です。神殿がそのような場となっていることを強く指摘なさいました。
だれも差別されることなしに、だれでも神に祈り、礼拝する所が神殿なのだと教えられました。
だれでも、神を信じ、心から礼拝をしたいと願うなら、神は受け入れてくださる、それが神殿のあるべき姿なのです。
また、マタイによる福音書によると、主イエスは神殿で盲人や、足の不自由な人たちを癒されたとあります。
体の不自由な人々は、神殿に入って礼拝することができませんでした。
しかし、主イエスは彼らの上に愛と憐みを示してくださいました。
神殿は苦しんでいる人や困っている人が、愛と憐みを受ける場だと教えられたのです。
主イエスが神殿から商売人や両替人を追い出されたのは、もはや罪の赦しを受けるために、動物の犠牲は要らないということを教えられるためでもありました。
主イエスが十字架に架り、すべての罪を赦すために、神の小羊として御自分をささげてくださったからです。
「雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。」(ヘブライ9:12−14)と、教えられているように、神様を礼拝するために、動物の犠牲はいらないということです。
主イエスの両親とされたヨセフとマリアは、毎年過越しの祭りにはエルサレムへ上って行きました。
ルカによる福音書2章には、主イエスが12歳の時に、両親と一緒にエルサレムへ行ったことが記されています。
祭りが終わって帰宅する時に、少年イエスがいないことに気が付かずに、一日経ってからやっと気が付きました。
旅は自分たちだけではなく、近所の人や親せきと一緒なので、だれかと一緒にいると思い込んでいたのです。
ところがいないことが分かり、両親はエルサレムへ引き返しました。
三日の後に、やっと探し当てました。
なんと、神殿で学者たちの真ん中に座り、話しを聞いたり、質問したりしていたのです。聞いている人たちは、主イエスの賢さに感嘆していました。両親が、なぜこのようなことをしたのか、どれほど心配したかと言うと、「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」(ルカ2:49)とお答えになりました。
主イエスは少年の時から、神殿は父の家であり、この神に祈りをささげる所だと知っておられたのです。
主イエスと、その教えを拒絶する祭司長や律法学者たちは、主イエスを捕えて死刑にすることを謀り始めました。
人の高慢さと頑なさは、霊の目をふさぎます。待ち望んだメシアがこの世に来られたのに、彼らは信じようともせず、損なうことを計画したのです。悔い改めない心は、せっかくの救いにも気が付きません。
今、私たちは主イエスを救い主として心に信じて、だれにも妨げられずに、自由に礼拝をささげることができます。
主イエスの十字架によって罪許された者は、「神の神殿」であると宣言されています。
「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」(Tコリント3:16,17)。
十字架によって罪許された者は、神の御霊が宿り、神の神殿であるとあります。本当に不思議なことですが、神によって新しい人として創造がなされたことを信じます。
私たちは神の栄光の為に新しく造られた者として、御言葉を伝え、神の栄光の為に進んで行きましょう。
2026年のみことば
「御言葉を宣べ伝えなさい。 折が良くても悪くても励みなさい。」
Uテモテへの手紙4章2節
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